2017年11月24日 (金)

小豆島「江洞窟」の庵主

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フェリーで小豆島へ向かった。雨は止んだが天気は悪い。スペインから持ってきたという1000年オリーブの木を見たあと、巡礼の60番札所、弁財天を祀る「江洞窟」へ向かう。
庵主は97歳の宮城英徹氏。彼は長野県旧制松本高等学校卒。戦後、得意の英語を活かしてGHQに勤務。その後、商社員となってイラクに滞在、80歳を過ぎてから、高野山大学、大学院修士課程で仏教(真言宗)を学び御仏に入門したという。修士論文も立派なものだ。生涯独身で、今も信じられないくらいお元気。いったいどんな人生をおくってきたのだろう、そしてなぜ80歳を過ぎて仏門に入ろうなどと思ったのだろう。戦中戦後の日本で、またイラクで何を見て何を思ったのか……詳しい話を伺うことはできなかったけれど、このような方もあるのだと深く感じ入った。
その後、エンジェルロードと名付けられた砂洲へ。アガサ・クリスティーの『白昼の悪魔』の舞台となったイギリスのバー島やセントジョージ島、有名なフランスのモン・サン・ミッシェルのような感じで、干潮のときは地続きになり歩いて渡れるが、満潮になると渡れないという……イギリスやフランスのものに比べれば規模は非常に小さいが美しい場所だった。

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2017年11月23日 (木)

倉敷「エル・グレコ」で思うこと

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いつもの仲間5人で倉敷と小豆島に行った。倉敷に着いた日は、町を歩いて舟に乗り、古い土蔵を改装したレストランで食事をした。翌朝は、大原美術館を見たあと喫茶店「エル・グレコ」に入る。大きなガラス窓から色づき始めた蔦が風に揺れているのが見える。レトロな椅子に座って友人たちとコーヒーを飲みながら、ふと父のことを思い出した。
倉敷は亡き父と歩いたことがある。父とふたりで旅行ともいえない旅行をしたのはそれ一度きり。どこのホテルに泊まったのか記憶にないが、この「エル・グレコ」で父がコーヒーとチーズケーキを注文してくれたことはよく覚えている。当時、私はまだ大学生で卒論の資料を集めるため、大学で募集された韓国旅行に友人と一緒に申し込み、関釜フェリーに乗るために下関へ向かうことになっていた。同じ日に父は福山へ出張だった。「それなら1日早く出て、倉敷でも案内してやろうか」と父が言ったのだ。行きの新幹線のなかで会社の人に偶然出会った。父が「私の娘です」と紹介すると、その人は「まぁまぁ良いですから」と、父の顔もまともに見ないで立ち去ってしまった。父は「なんだ、いったい何を考えているんだろう」と少し不愉快そうに言いながら、どこか嬉しそうだった。
翌朝父と別れ、私は下関の集合場所で友人と落ち合い、色々な大学から集まってきた学生たちに混じって夜行のフェリーに乗り込んだ。夕食後、友人とふたりでフェリーのなかの喫茶室に座ってお茶を飲んでいたら、ちょっと格好の良い、いかにも商用で出かけるといった感じで忙しそうにそわそわと室内を見回していた若い男(といっても30歳は過ぎていただろう)が近づいてきて、「君たちは大学生ですか」と話しかけてきた。どこから来たのか、どこの大学か、なぜこのフェリーの乗ったのか、などと聞いた後、明日、自由時間はあるのか、もしあるのならソウル大学の男子学生を紹介するから会ってみないか、とても頭の良い気さくな学生たちだから是非紹介したい、タクシーに乗ってくれば良い、と言い一枚のメモを渡した。私たちは20歳を少し過ぎたばかり、その男の言葉を全面的に信じ、疑うことなど思いもしなかった。翌日、指定された時間がもし自由時間だったら、彼女と二人でその場所へ行っていたかもしれない。そうしたらどうなっていただろう。犯罪に巻き込まれて被害者になっていたかもしれない。ずっと後になって、ある人にこの話をしたら、えぇーと驚かれてしまい、「何を呑気なこと言っているの。北朝鮮に拉致されるところだったんじゃないの?」と言われた。そうかもしれない、確かにそうかもしれない、まさしくそんな時期だった!その時はそう思ってぞっとしたが、今は、考えても分からないことを考えても仕方がない、と思っている。あまりにも遠い昔のこと……父を思い出しながらコーヒーを飲んでいたら、とんでもない方向に記憶が流れてしまった。

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2017年11月 9日 (木)

七五三

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写真は高折先生から頂いたマスコット人形

 

先週末は、孫の7歳のお祝いだった。孫は60年前の私の晴れ着を着た。それは私の7歳のお祝いに祖父が買ってくれたものだ。記念撮影をして孫のいう「かしこみ」を済まして近くの料理屋へ行き、皆でお祝いの膳を囲んだ。料理屋に入って行くと、玄関ですれ違った中年のご夫婦が「なんて可愛いんでしょう!」といってくれた。食事が終わり、商店街を歩いていると、すれ違う見知らぬ人たちが「おめでとうございます」とか「可愛いですね」といいながら立ち止まってくれる。孫もにこにこしてやっぱり嬉しいのだろう。気持ちの良い秋晴れの1日だった。60年前の私の七五三の日は、神社の帰りに高折宮次先生のお宅に母に連れられてご挨拶に行った。私にとって「猫に小判」だったピアノの大先生。奥さまの道子先生が「おめでとうございます」といってとてもモダンなマスコット人形をくださった。古くなって汚れてしまったけれど、今でも持っている。

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2017年10月30日 (月)

細川順三・音楽講演会

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*芸術の秋*音楽講演会*

**午後のひと時を細川順三氏とともに**

 

11月11日(土曜日)13時30分~15時、NPO法人馬込文士村継承会の特別講座に、NHK交響楽団のフルート奏者として活躍された細川順三氏をお招きして、お話を伺うことになった。場所は大田文化の森。

細川さんは東京芸術大学在学中、第40回日本音楽コンクールで第2位に入賞。大学卒業後、札幌交響楽団の首席奏者となり、その後、文化庁在外研究員としてバーゼル市立音楽院に留学。1987年から2009年までNHK交響楽団に在籍した。内外で賞を受けソリストとしても活躍。フェリス女学院大学教授、東京芸術大学非常勤講師、日本フルート協会常任理事などを歴任。CDに『Morgen』、書籍に『絶対!うまくなる フルート100のコツ』がある。

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音楽が、フルートがお好きだという方は、身近でお話が聞ける良い機会だと思います。細川さんは私の高校時代のオーケストラの先輩。お話もとっても上手な方です。ご参考までに、2015年5月27日の私のブログです。

http://natty8.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-febd.html

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2017年10月28日 (土)

雨上がりの夕方

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このところ体調が悪く、家に籠っていたが、孫に渡すものを頼まれて最寄りの駅まで行かなくてはならなくなったので、思い切って出かけた。数日前の夕方のことだ。一日中降り続いた雨がやっと上がり、濡れた舗道をゆく私の足音がぴちゃぴちゃと聞こえる。まるで川から上がってきた河童みたい…靴が重いなぁ。まだ7時だというのに何て真っ暗なんだろう。まだ少し頭痛がする…。それでも孫に会ったら夕飯にうどんぐらい奢ってやろうか、いやいやけちくさい、うなぎにしようか、などと考えながら駅へ向かう。
10分ほど待たされてから現れた孫は、荷物を受け取るとさっさと帰ってしまった。友だちと一緒だったから仕方がないが、荷物を渡すと、「わかった、ありがとう」といったきり。私が、重いから気を付けて、とか、帰り道は暗いから注意して、などというのにただ愛想笑いして、それきり…。まぁ、男の子なんてそんなものだったかもしれない。
私は仕方なくぶらぶら歩いてスーパーで梨を買って帰宅した。梨はひとつ320円。よく考えてみると、とっても高価だ。私が子どもの頃は300円で大きなスイカが買えたのだが、世の中はすっかり変わった…でもそれは当たり前、スイカが丸ごと300円だなんて、もう半世紀以上も前のことだ。

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2017年10月18日 (水)

太宰治の生家『斜陽館』

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斜陽館

 

太宰治の生家は青森県五所川原市の金木にある。以前は旅館だったが、今は、記念館『斜陽館』として修復され公開されている。私はひと目見て、あまりに立派なので驚いた。まるで、イギリス貴族の館の日本版。太宰が誕生した部屋や、300人ほどいた小作人から小作料を受け取った銀行の窓口みたいな「店」、3方向に広がる中央階段、貴賓室のような洋間、そして巨大な蔵。太宰治は、津島家のこのような家(青森で4番目の資産家だったという)で6男として生まれた。太宰は利発で特別感じやすい子どもだったのかもしれないが、長男以外は財産を継ぐこともない時代、責任もなく生きる目標もなく、ただの洒落者として放蕩するうちに共産思想に囚われたとしても不思議ではない。そして薬を常用し、死に対する願望を持ち続けたのも仕方のないことだったのかもしれない。私は去年、アンソロジーシリーズの1冊『人魚』を編集した際、太宰を取り上げ、また今回は生家を見て……それまで太宰の作品は好きではなかったけれど、ちょっと理解したように思った。

雨は相変わらず降り続いていたが、太宰が子どもの頃に遊んだという雲祥寺を歩き、移築復元された旧津島家新座敷へ向かう。これは兄の結婚を機に建てられた離れだったが、そこに勘当された太宰が戦争中疎開していた。太宰は戦争中に、良い作品をたくさん書いているのだ。売店で『津軽』と『津軽通信』(奥野健男の解説)を買う。『津軽』は学生の頃読んだが、『津軽通信』は知らなかった。A子と二人で『斜陽館』の前の店でネマガリダケが乗ったラーメンを食べて新青森駅へ。4時38分発の新幹線はやぶさ28号で帰京。

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2017年10月17日 (火)

日本のワーズワース・大町桂月

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大町桂月の墓

 

翌日は、大町桂月ゆかりの蔦温泉旅館に泊まった。質の良い温泉で知られる蔦温泉、湯は透明で少し熱め、評判通りだ。風呂場は天井が高く、太い梁が渡してあり、湯治場の面影を残して素朴だが趣がある。

大町桂月は、秘境を探検し、保存を訴え、そこに永住し永眠したいと願った詩人。イングランドの湖水地方をこよなく愛し、ダヴ・コテッジ、ライダル・マウントと移り住んだイギリスの桂冠詩人ワーズワースのようだ。大町桂月は明治2年に高知で生まれた。桂月は高知の桂浜からとった号。父は土佐藩士。東京帝国大学在学中から文学活動に勤しみ、後に博文館に入社。明治41年、博文館の編集長だった五戸町出身の鳥谷部春汀に伴って、平福百穂とともに十和田へ赴く。桂月は十和田周辺の美しさと雄大さに深く感動し、その10月に15章からなる紀行文『奥羽一周記』を発表し、十和田を世に紹介した。大正11年、日本の名山を10年で踏破する計画を立て、富士山をはじめ、北アルプス、南アルプスの山々に登り、多くの紀行文、漢詩、俳句、和歌を残した。十和田、奥入瀬、八甲田を愛した桂月は大正12年に「十和田湖を中心とする国立公園設置に関する請願」という請願文を起草。十和田は昭和11年国立公園に指定された。

桂月はそのなかでも、特に蔦温泉を好み、家族ともども本籍を蔦温泉に移した。大正14年、蔦温泉で没。享年57歳。

次の朝も激しい雨。A子に、大町桂月の墓に絶対に行きたいというと、雨のなかつき合ってくれた。国道から林に入り、少し歩くと苔むした石段があり、上り詰めた先にそれほど大きくはない自然石が見えた。『大町桂月の墓』とある。桂月の墓の後ろに大きなぶなの老木が枝を伸ばしていた。紅葉にはまだ早く、緑の葉が雨に打たれていた。雨の匂い……湖水地方のコッカマスで生まれたワーズワースも、古い教会の庭で永遠の眠りについていた……。

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2017年10月14日 (土)

ピラミッドなのか雨乞い遺跡なのか

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キリストの墓の傍に「大石神ピラミッド」がある。そこもまた「竹内文書」に記されている場所だ。それによれば、「日本にはエジプトのピラミッドより古いピラミッドが7基ある」とのことで、これがその一つだという。ピラミッド説はちょっと無理があるなぁ……とも思うが、なかなか神秘的な場所で、飛鳥をはじめ日本のさまざまな場所に見られる一種の巨石文化の遺構ではないのか、と私はここでも妄想に囚われる。ここは一説には雨乞いをした場所ではないか、ともいわれているらしい。もしかしてゾロアスター教の…などということはまずないだろうが…。それにしても、一枚の大岩が自然に割れたとは考えにくい。周囲に岩は見当たらない。でも……昔は岩がごろごろしていたのかもしれないし、それが人によって片付けられたのでは、などと疑ってみる。とにもかくにも、私にとって、そこはキリストの墓よりもなお興味深かった。小高い土盛りの上に大きな岩が点々ところがっている、それだけで心が騒いでしまう。

そうこうしているうちに、空模様が怪しくなってきたので、雨になる前に夕飯に何か買わなくてはと、「岩場」を下りて「役場」の方へ向かう。店は少ない上にほとんど閉まっていて、やっとヤマザキの看板のあるよろずやを見つけて、夕食用と翌日の朝食用おにぎりを買い、温泉会館に戻る。温泉に浸かり(温泉はとても良い)、物産館で買ったとうもろこしと梨とヤマザキのおにぎりを食べ、二人でいろいろ積もる話をして11時ごろ就寝。

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2017年10月13日 (金)

新郷村・キリストの墓

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長い間行ってみたいと思っていた青森県の新郷村。私の変わった趣味にいつも付き合ってくれるのは高校時代の親友A子。彼女とは50年前からニューギニアにいく約束をしているのだが、まだその約束は果たされていない。東北新幹線には初めて乗ったが八戸まで3時間あまり、信じられない速さだ。

途中、物産館に寄ったり食事をしたりして新郷村に着いたのは午後3時頃。まず、A子が予約してくれた新郷村温泉会館に行って荷物を下ろしたが、温泉付き素泊まりの施設で、なんと一泊2800円。自分で布団も敷かなければならない。新郷村の宿泊施設はそこしかないといっても、本当に大丈夫だろうかと怪しみつつ、それでもまずはキリストの墓へ。

車を降りて、らせん状の坂を上って行く。丘の上には土饅頭が二つあり、それぞれ「十来塚」と「十代塚」と書かれ、木の十字架が立っている。それがキリストとキリストの弟イスキリの墓だという。「21歳で来日したキリストは33歳でユダヤに帰国し、布教活動をしたが捕えられて磔刑に処せられたとされるが、実は弟のイスキリが身代わりとなったもので、キリストはその後再び来日し、106歳まで生きた」と、説明板にある。これをばかばかしいと一笑に付すにしては、あまりにも興味深い。

なぜこの村にキリストの墓があるのか。これは、昭和初期、茨城県にある皇祖皇太神宮(こうそこうたいじんぐう)の管長、竹内巨麿(きよまろ)が興した天津教に関係があるらしい。天津教は、「神武以前の天皇の血統が人類の祖先となって世界を統治していた」とするもの。天津教は、当時の国民意識の統一と国威発揚を目ざした軍国主義の方針と相俟って、多くの信者を抱えた新興宗教だった。竹内は皇室に対する不敬罪の容疑で逮捕されるが、結局無罪になる。天津教の経典のような「竹内文書」には、キリストもその範疇にある(天皇の子孫ということ)とされ、キリストの遺言まで記されている。それにしても「竹内文書」と呼ばれる古文書は面白い。もちろん古文書ではなく捏造されたものには違いないのだが、とにかくその奇想天外な物語は、まるでイギリスの宗教的ファンタジーのようだ。

それにしても聖書にはないイスキリという弟がいて、キリストの身代わりになるなどというところは、まったく日本的だ。西洋では主従関係での身代わりは美化されているようだが、兄弟は往々にして仲が悪いものなのだ。とにかく、書いたのは教祖自身なのだろうが、最初に新郷村に目星をつけておいて、物語の構想を練ったのか。でも、なぜこの新郷村(旧戸来村)に焦点が当てられたのだろう。特徴のある風習、方言の強い言葉などが都合の良いように解釈されたのだろうか。私としては……江戸末期ごろにキリスト教の宣教師(多分、青森ならロシア正教だろう)が布教のためにこの山深い寒村にきて、何らかの原因で命を落としてしまった、村人たちは宣教師を葬ったが、長い年月の間に宣教師はキリストとして祀られて……などと妄想するのだが、多分そんなことなども、ないのだろう。結局、すべては作られたもの。どんな村にも地形的には小高い丘も平坦な場所もある。

いずれにせよ昭和初期、青森県の山村で始まった騒動は、今や、大々的なお祭りにまで発展し、6月には多くの観光客を集めるという。この村に伝わる盆踊り歌「なにゃどらや、なにゃどなされの、なにゃどらや…」は、ヘブライ語で歌われる古代ユダヤの軍歌に酷似しているという説がある。けれども、民俗学者柳田国男は女性が男性に呼びかけたもので「なんなりとおやりなさい…」などという意味だと解釈している。私としては、農耕民族の収穫祭に相応しい柳田説に説得力があると感じるが、ヘブライ語説はまた別の意味で楽しい。

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2017年9月24日 (日)

『キャッツ』

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写真は四季の『キャッツ』

 

孫たちがニューヨークで『キャッツ』を見たらしい。ニューヨークではまだやっているのかしら。もしかしたらリバイバルなのかもしれない。『キャッツ』はロンドンで1980年代の始めから20年以上続いて終わったのだが、舞台がいかにもロンドンの下町らしい感じで(ただし、キリスト教的なところはなかなか理解に苦しむが)楽しく、私はロンドンで5回ほど見た。2002年だったか、最後の公演も見た。でも数年前、息子はロンドンで『キャッツ』を見たというし、日本でもまだやっているようなので『キャッツ』はなかなか終わらないらしい。2010年、私は日本語でも見たいと思って、親友と一緒に四季の『キャッツ』を横浜まで見に行った。彼女は、猫は大嫌い!といいながら付き合ってくれた。ロンドンでは海賊猫グロールタイガーの歌に確か、テームズ川が出てきたと思うのだが、日本では隅田川を思わせる言葉があったように思う。それならば、ニューヨークではハドソン川が出てくるのだろうか……などとつまらないことを考えてしまう秋の夜長だ。そういえば…2010年の3月に『キャッツ』のことをブログに書いたことを思い出した。

http://natty8.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-1.html

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