2018年4月 2日 (月)

オクターブ・ミルボー

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小説家オクターブ・ミルボーはクロード・モネの親友だった。そこで、ちょっと読んでみようという気になり、フランスの短編集のなかにあった『呪われた制服』を読んだ。ある貴族の御者の話だ。正直な若者が、代々受け継がれた古風な御者の制服を身に着けたとたん、過去の邪悪な御者たちと同じように堕落しはじめ、最後は雇い主の貴族を殺してしまう。なかなか象徴的である。さらにもう少し読んでみようと、かの有名な『責苦の庭』(1899年)を読んだ。ミルボーは「この殺戮と流血の文章を、宗教者と兵士と裁判官に捧げる。人間を訓育し、指揮し、統御しようとするものたちに」と書いている通り、反戦論者なのだ。しかし読み始めたはいいが、底知れない気味の悪さに途中から気分が悪くなってしまった。桜の花が散り始めた美しい春の午後、窓辺に座って『責苦の庭』を読むなどというのは……じつにアンバランスで酔狂としか言いようがない。あの時代のフランスで流行した一種の怪奇小説なのかもしれないが…。クララという残虐で卑猥な女が出てきて、中国の架空の町にある処刑場(そこでは無実の人が、筆舌に尽くしがたい残酷な拷問を受ける)の美しい庭園に案内する。庭園の花は処刑されたものの血と肉を栄養にして咲き誇る。その庭の描写がモネのジヴェルニーの睡蓮の庭園にそっくりだというのだ。『責苦の庭』は、澁澤龍彦が初訳しているらしいが、さもありなんである。

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2018年3月29日 (木)

板東ドイツ人俘虜収容所

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収容所跡

 

徳島では、モラエスゆかりの地ともうひとつ、第一次世界大戦時に板東にあったドイツ人俘虜収容所跡を見たいと思っていた。中国のチンタオで拘束されたドイツ人兵士(なかには市民もいたらしい)953人が、大正6年から9年にかけて板東の地に収容されていた。
大麻比古神社の拝殿の裏庭には、移設された小さなめがね橋があり、さらに奥に石積みの「小谷のドイツ橋」がある。これも橋にしては小さいものだが、めがね橋とともに捕虜になったドイツ兵が造ったという。板東ドイツ人俘虜収容所跡は、山に囲まれた田園のなか、小高い丘の下にあった。今は兵舎の土台だけが残り、丘の上には当時造られたここで死亡したドイツ兵の慰霊碑がたっている。当時、ドイツ兵と地元住民との交流が盛んで、演奏会や演劇などが頻繁に催された。そのひとつにベートーベンの第九交響曲の初演があった。ドイツ兵たちが日本で(アジアで)初めてベートーベンの第九をこの地、板東で全曲演奏したのだという。他にもバターやチーズ、ソーセージやパンなどの製法も伝えられ、収容所内には印刷所も設けられ多くの印刷物も作られた。それはひとえに所長の松江豊寿の人道的配慮があったからだ。実際、日本にあった他の収容所に比べて、破格の扱いだったようだ。
第2次世界大戦後、旧兵士ライボルトの一通の手紙から、再びドイツと大麻町の交流が始まり、昭和51年にはドイツ人の手によって、収容所の丘の上に日本各地で死亡した85人のドイツ兵の新しい慰霊碑がたてられた。
徳島から帰京して、板東ドイツ人俘虜収容所を舞台にした映画『バルトの楽園』を見た。バルトとは髭のこと。松江豊寿所長、そしてドイツ人俘虜と地元民の交流などが描かれる。

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2018年3月24日 (土)

W・デ・モラエス(2)

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潮音寺のモラエスとヨネ、コハルの墓

 

モラエスは1854年にポルトガルのリスボンで生まれた。父は高級官吏、母は軍人の娘で、モラエスは海軍学校を卒業して海軍士官となる。マカオ在住中にデンマーク人の父と中国人の母をもつ亜珍と同棲して2人の息子を得る。軍人ながら学者、文筆家としても力を発揮。軍人から役人に転身して日本に移住し、後にポルトガル領事館の初代領事となった。モラエスはキリスト教徒(カトリック)ではなかった。宗教に対する意識は非常に覚めていて、それだからこそ、いわゆる日本の「異国情緒」に惹かれたのだろう。「不思議なことに…日本人は神道信者として生まれ、仏教信者として死ぬ…」とある。客観的にみれば、まったくその通りだ。
モラエスがはじめて日本に来たのは1889年、35歳の時だった。長崎港に船が近づいていくと、山を覆う木々の緑の深さに目を見張る。これはよく理解できる。日本で暮らしていると当たり前の風景だが、日本の緑は熱帯の緑とも違う趣がある。スペインから6年ぶりに帰国した際、日本の緑は何て美しいのだろうと感動すると同時に、心に重く傾れかかり鬱陶しいほどだと感じたことを思い出した。
モラエスの著書を読むと、非常にラテン的なウエットな人だと感じる。ラテン系の人々はドライで現実的だと思われがちだが、実はものすごくウエットで傷つきやすい。モラエスはヨネに対してもコハルに対しても、心から「追慕」する。『おヨネとコハル』に、コハルの死を、優しさと哀れみをもって書き記している。「忘却も追慕の苦しみに対する良薬とはならない。ただ1枚のベールのように隠すだけ。微風が吹けば波打ち、遠い過去をあらわにしてみせる…」.さらに、日本人の死に対する意識を神秘的だと捉える。たとえば切腹という自殺、心中という自殺、そして一番怖いのは、意地悪な姑にあてつけるために子どもを道連れにして死んで見せること、それは理解できずただただ恐ろしい、と。

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2018年3月21日 (水)

W・デ・モラエス(1)

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写真は「和田の屋」

 

若い頃、賑やかな阿波踊りの雑踏のなかに佇む、背の高い孤独なポルトガル人の姿を思い描いては、哀感をそそられたものだ。いつかモラエスが暮らした徳島に行きたいと思いながら、長い間機会に恵まれなかった。でもついに行ってきた!モラエスはポルトガルでも著名な文筆家だ。図書館で、モラエスの著作を3、4冊、瀬戸内寂聴の戯曲『モラエス恋遍路』、そしてモラエスを主人公にした新田次郎の未完の小説『孤愁』を借りて読んだ。これは最後の部分を藤原正彦が父親のあとを書き継いで完成させている。
朝、羽田を発って、徳島阿波踊り空港(今や空港までキラキラネーム)に着いたのは10時15分。まずは「徳島県立文学書道館」へ。モラエスの資料は思ったよりも少なかったが、瀬戸内寂聴はじめ徳島に関係のある作家と書家の資料が並んでいた。そこからモラエスとヨネゆかりの春日神社の焼餅屋「和田の屋」(当時は「米善」という名の茶店)に行き、菊型が焼きつけられたあんこ入りの餅を食す。店の人は、今年は雪がひどくて黄色い5弁の花をつける黄花亜麻がだめになりました、といっていた。滝も水が枯れている。モラエスとヨネがここで再会したというブラジル領事館員コートの証言があるらしいが……ともかく1900年、当時神戸のポルトガル領事館に勤務していたモラエスはヨネと結婚し、領事館に近い山手通りで暮らし始めた。1912年にヨネが他界したあと、モラエスはヨネの郷里徳島へ移り住み、ヨネの姪コハルと同棲する。けれどもコハルもまた1916年にヨネと同じ結核に侵され、23歳の若さで他界した。モラエスはふたりの墓を守りながら徳島で暮らし、75年の生涯を終えた。「和田の屋」から歩いて10分ほどの「潮音寺」境内に、コハル、モラエス、ヨネと3つの墓が並んでいる。しかし寺は趣もなく、区画整理されて墓石もまばらだ。モラエスが歩いた道や住んでいたあたりを巡って、ロープウエイで眉山に上り徳島の町を見下ろす。何といっても雄大な吉野川が美しい。

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2018年3月 9日 (金)

冬の終わり

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2月最後の日の明け方、久しぶりに夢を見た。今は亡きK先生だったのかしら、確かにそうだ。先生が私のところに訪ねていらした。私は他の訪問者のためになかなかお話しすることができない。自分の家のようで自分の家ではない大きな建物のなかを右往左往しながら、それでも先生を待たせている。とても気にしながら。そしてようやく人々が去ってK先生とお話しする。先生は、この部屋の軸は固いですね、とおっしゃる。不思議な言葉だ。私はカーテンを開け、先生と並んで大きな窓の外を眺める。カーテンを開ける場面が何度も何度も繰り返される。そして、最後に一番奥の部屋の暗い色のカーテンを引き開ける。窓の外には夕闇が迫っている。目の前に大きな木々が逞しく葉をひろげているのを先生と一緒に眺めている。やがて先生は帰り支度をはじめ、私は一緒に外に出る。先生のお宅は近いのだからお送りしよう、せめて途中まで、と思っている。先生は杖を突いてゆっくり歩く。白髪で眼鏡をかけていらっしゃる。……目覚めの薄暮のなかで急激にうすれていく夢の記憶の最後に、先生は、来なくてもいいよ、私はひとりで帰れるから、とおっしゃって……。2月は黄泉の国に近い。キリスト教では10月かもしれないけれど、日本ではきっと2月だ。私の大切な人、私を導いてくれた師、親しい友人たちも2月に逝ってしまった。どこか薄暗くて重い静かな空気が地に充ちているのに、空だけは輝いて日ごと抜けるような青。その地と空のあいだに、気がつけば白梅や紅梅の花が満開だ。

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2018年2月21日 (水)

モネのしだれ柳

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クロード・モネの絵といえば睡蓮かもしれないが、ジヴェルニーの庭の睡蓮池の畔には、しだれ柳が植えられていた。Weeping Willow(しだれ柳)は、 18世紀初めにヨーロッパに持ち込まれて以来、ずっと死と服喪の象徴だった。それはしばしば女性として擬人化された。私にとって、「柳」は子ども時代の「銀座通りの並木」なので、幼いころに沁みついた明るくて洒落たイメージがあるのだが。
モネが影響を受けたという1847年に刊行された挿絵画家のJ・J・グランヴィーユの『擬人化された花』のなかの散文詩の一節。
Come into my shade, all you who suffer for I am the Weeping Willow.
私の影にお入りなさい 苦しむ人々はみな、私はしだれ柳なのだから・ 私は小枝のうちに優しい顔の女性を忍ばせている・彼女の金髪は額にかかり 涙に濡れた目を覆う・彼女は愛した人すべての無言の想い・……彼女は死に触れられた人々の心を慰める
もうひとつ、モネに影響を与えたアルフレッド・ムゼーの1835年の詩『ルーシー』
親しき友よ 私が死んだら・墓に柳を植えて欲しい・私はその嘆き悲しむ小枝が好きだ・その青白さはなんと心ひかれることか・そしてその影は優しく・私が永遠に眠る土の上に
しだれ柳は、ムゼーが1857年に他界した時、実際にペレ=ラシャーズの墓のそばに植えられたが、19世紀のガイドブックには、この「有名な柳」(多分、当時はフランスで最も有名な木だった)は、しばしば旅行者によってその葉や枝が持ち去られ、丸坊主になっていたとあるそうだ。

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2018年2月 7日 (水)

つぬけの会

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銀座1丁目の「柴田悦子画廊」で催されている絵画展『つぬけの会』(今月11日まで)に出かけた。案内には「釣り好きで、東京藝術大学出身の5作家の作品展」とある。因みに「つぬけ」とは、釣り用語で、釣果を数えるのに1から9までは「ひとつ」「ここのつ」など「つ」がつくが、10になると「つ」がつかなくなるところから10尾目を「つぬけ」たというそうだ。こじんまりした画廊で、友人知人が集まり楽しげな雰囲気。でも時折り、たまたま通りがかったような何気ない感じで入ってきてひとつひとつをゆっくり眺めて出ていく人がいて、きっと絵画の目利き、玄人なんだな、と…。ちょっとパリの裏通りを思わせる雰囲気のある古い画廊で、5人のプロ作家の繊細な作品を見ることができてとても良かった。壁に魚が泳いでいる…あっちの壁には桜が咲いて、こっちの壁にはスペインの白壁の家…。

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2018年2月 4日 (日)

『ダフニスとクロエ』・ロンゴス

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パリ・オペラ座の天井画・シャガール画

 

『ダフニスとクロエ』を読んだ。ルーブルの美しい彫刻やラヴェルのバレエ音楽、そして三島由紀夫の『潮騒』や北杜夫の『神々の消えた土地』は、この物語を念頭に置いて創作されたものだということは知っていたが、『ダフニスとクロエ』そのものがどういう物語なのかは知らなかった。今回、ある方からシャガールのリトグラフ『ダフニスとクロエ』42枚を紹介され、読まなければ!という気持ちになった。舞台はエーゲ海のレスボス島。親に捨てられ山羊に育てられたダフニスと、同じ境遇で羊に育てられたクロエの恋物語だ。ふたりは、恋敵に邪魔されたり、海賊に襲われたり、戦争に巻き込まれたりとさまざまな困難に出会う。けれどもついに、ダフニスはミュティレーネーの大富豪ディオニューソファネースの息子で、クロエもまた富豪メガクレースの娘とわかり大団円となる。これはギリシャ語の小説で作者はロンゴス。3世紀ごろに書かれたという。
昨日の朝、『ダフニスとクロエ』のことを教えて下さった方から小さな荷物が届いた。なかには1冊の本、英語版『シャガール・色彩と音楽』が入っていた。彼女は私が尊敬する先輩のひとりで、シャガールを愛するとてもエレガントな女性だ。高校も大学も同窓で、ロンドンにも長い間住んでいらした、私の先を行く方である。

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2018年2月 1日 (木)

『雪国』・川端康成

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国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった……小説『雪国』の冒頭である。季節は初冬、島村は越後湯沢温泉の芸者、駒子のもとへ向かう汽車のなかで葉子に出会う。通路をへだてた席で病気の青年の看病をする葉子の姿が、夕闇を背景に汽車のガラス窓に浮かび上がる。葉子の顔のただなかに野山のともし火がともる……『雪国』は若い頃に繰り返し読んだが、この年になってまた読むと、この小説のただならぬ魅力に惹きつけられる。物語は、葉子が燃えさかる繭蔵の高みから落ちたところで終わっている。気を失った葉子を胸に抱えて戻ろうとする駒子は、まるで自分の犠牲か刑罰かを抱いているように見える。葉子は駒子の化身、もしくは精神、内面ともいえるもうひとりの駒子なのだ。作者自身も「駒子は実在するが葉子は実在しない。葉子は作者の空想である」といっている。青年は病死し、葉子は狂気に陥り、やがて島村と駒子の別れがくる。芸者駒子に対する島村の愛は憐憫である。駒子の自分への愛情を美しい徒労のように思う時、島村自身も空しさに襲われる。それでもなお駒子の生きようとする命が熱く迫ってくると、島村は、駒子を哀れみながら自らをも哀れむのだ。貧しく美しい者に対する憐憫はそのまま自己憐憫へとつながる。この小説の全編に降り積もる見えない観念的な雪。登場する人々も冷たく凍えた心を抱えながら温もりを求めている……東京も、今夜は予報通りの雪になるのだろうか。

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2018年1月25日 (木)

入道雲少年棒を持ちたがる・今井千穂子

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数日前の夕方、NHKニュースで「NHK全国俳句大会」のことをとりあげていた。約44000句の中から特選は50句ほど、その中から3句が大賞に選ばれる。そのひとつが今井千穂子さんの句「入道雲少年棒を持ちたがる」だった。降り注ぐ真夏の陽射しのなか、少年たちの明るい声が聞こえてくるようだ。今井千穂子さんは文芸誌関係の友人、すぐにSMSで「おめでとうございます!今、テレビ見ました。素晴らしい」と書いて出す。「ありがとうございます。こんなことになるとは…」と返事をいただいたが、翌日お電話があった。久しぶりにゆっくり話した。友人が選ばれるのはなんだか嬉しくて、私まで晴れがましい気分。本当に素晴らしい!2月10日午後3時からNHKのEテレで詳しく放送するようだ。

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