2019年10月13日 (日)

バルセロナ*レストラン『ロス・カラコーレス』

 

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『ロス・カラコーレス』店内の階段手すりにある大きなカタツムリ


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カラコーレスのソース煮 

 

今回はほとんどマドリッドにいたが、数日だけバルセロナに行った。

マドリッドのアトーチャ駅はすっかり変わっていて、旧駅舎はレティーロ公園にある温室のよう、大きな葉を広げた南国の植物が生い茂っていた。昔は、夕方マドリッドを出て(素敵な寝台車だった!オリエント急行みたいに)、バルセロナには翌朝着いたのだが、今はAVE(新幹線)で2時間半。発車してすぐに車窓は赤茶色の大地とオリーブ畑の景色になった。遠くシグエンサの丘の上に、よく訪れた古城が見えたが修復中の様子。昔ながらの風車は見えず、白い3本腕の新型風車の上にトンビが舞う。金色の小麦畑、ミツバチの箱、そして左手に巨大な奇岩モンセラが見えてきた。バルセロナのサンス駅はもうすぐ、本当に信じられないくらいの速さだ。

ホテルに落ち着き、夕方、レストラン『ロス・カラコーレス』に歩いていった。途中、ベレン教会とサン・ジュセップ市場に寄り道。それから修復中のリセウ劇場の前を通り、35年前、やはり修復中だったリセウ劇場を、コーヒーを飲みながらガラス越しに見たバール「カフェ・デ・オペラ」を懐かしく眺めながら、左手の路地に入ってレイア―ル広場に出た。案内板もカジェ(通り)の名前も、とにかくカタルニア語なのでよく分からないが、広場の裏手にある『ロス・カラコーレス』は見覚えがあったのですぐに見つかった。

カラコーレスとはカタツムリのこと。この店は、いわゆるエスカルゴとも趣を異にするスペインのカタツムリを食べさせることで有名だ。カラコーレスのソース煮、クロケータ、レングアード、それに魚介のパエジャ、パンで夕食。昔、パンは可愛いカタツムリの形をしていたのだが今は普通の形。ビノ(ワイン)も飲み干し食事が終わってコーヒーを飲んでいるところに、トゥナが入ってきた。伝統的な学生バンドで(今は年配者が多い)、ギターやマンドリンを弾きながらサルスエラ(スペインのオペラ)の曲や、クリスマス近くになるとビジャンシコス(スペイン特有の子どものためのクリスマスソング)などを歌う。

店を出て大聖堂前まで戻ってくると、夜の10時だというのに広場は人でいっぱい。みな野外のテーブルに座って大声で話しながらカーニャやビノを飲んでいる。……スペインの初夏、やっと陽が沈んだところ……。

 

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2019年10月 9日 (水)

マドリッド*フアン・ラモン・ヒメネス通り

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幼稚園だった場所に残る樅の木

 

夏の初めにスペインへ行った。スペインで暮らし始めたのは今から37年前、子どもたちは2歳と4歳だった。旅行者としてマドリッドに行くのは31年ぶりだ。

10時50分成田発ブリュッセル行きのANAに搭乗。日本時間午後2時15分、いきなり日が沈んで突然夜になった。午後8時半、いきなり日が上って突然夜が明ける。16時間ほどで到着したバラハス空港はすっかり変わっていて迷宮のよう。ホテルに着いたのは夕刻だった。

翌朝は眩しいほどの陽射し!そう、これがスペイン!!

6年間住んでいた家はマドリッドの北部、フアン・ラモン・ヒメネス(『プラテーロと私』を書いた作家)通りにあった。ガラッヘ・ムンディアル(今はパーキング・ムンディアルとある)の前を過ぎ、ホテル・エウロビルディングの角を曲がってフアン・ラモン・ヒメネス通りに入っていく。懐かしい通りに初夏の緑が輝いている。子どもたちを遊ばせた公園や地域の人々のための小さな教会、野菜や果物を買った店も変わらずにあったが、住んでいたピソ(マンション)は、入り口にスロープも作られて様子も変わっていた。昔は、冬になると石炭を山のように積んだ大きなトラックが入り口の前に横づけされて、数人の屈強な男たちが暖房用(セントラルヒーティング)の石炭を運び入れていた。そんな風景はマドリッドの町でいくらでも見られたものだが、今はもちろんない。角ばった帽子を被り、緑色の制服を着たグアルディア・シビルが行き来し、鍵束を腰に下げたセレーノも何度か見かけた。時は流れ、通りの木々も見上げるように大きくなって強い陽差しを遮っている。

道を渡ってカスラの丘の方へ歩いていく。丘には古い教会があり、我が家のベランダから緑の丘と青い丸屋根の教会が見えた。毎朝6時に鐘が鳴り、その音で目を覚まして起き出し、子どもたちにお弁当を作った。

子どもたちを丘の向こうの幼稚園に送り迎えした道はそのままだったが、左手にもう1本新しい道ができ、少し上っていくとテニスコートがあり、小さなカフェがあった。年金組合のようなところがやっている施設で、10年ほど前にできたという。カフェ・コン・レチェ(ミルクコーヒー)を注文し外のテラス席に座る。テニス仲間なのか、隣のテーブルでふたりの女性が話をしていたが、その声の大きさと速さにびっくり。そうだった!マドリッドのスペイン語は特に早口だった!!太った大きな雀が餌をもとめて地面を歩いている。陽差しは強いが日陰に入ると風が涼しい。

コーヒーを飲み終わり、カスラの丘にある教会の庭を歩き、丘を越えて反対側の道におりて幼稚園の角まで行ったが、すでに幼稚園はなく、どこかの会社の建物が建っていた。でも、幼稚園の名前にもなっていた樅の木(アベート)だけは残っていて、大きく枝をひろげていた。よく友人たちとコーヒーを飲んだバールのひとつ「ゴンルイス」で、チューロとトルティージャ、サルチーチャ、コーヒーとパンなどでランチ。

バールの窓外に広がる懐かしい通り……37年の歳月、すべてが変わってしまったような、すべてが昔のままのような、不思議な感じ……。

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2019年6月 7日 (金)

ゆすらうめ

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このあいだ、伊豆の地元産の野菜を売る店で買い物をしていたら、ふときれいな赤い果実が目に留まった。「ゆすらうめ」とある。

これだわ!60年ほど前に、我が家の庭にあった「小梅桜」の実!植木屋さんは「熱海桜」ではないですか、といったけれど、「ゆすらうめ」なのね。細い枝を折った時の、ポキっという乾いた音まで耳によみがえってきた。

焼酎に漬けると赤いきれいな果実酒になると小さく書いてある。早速、漬けこんでみた。

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2019年5月28日 (火)

70歳の中学生

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 彌彦神社の「玉の橋」

先日、中学時代のブラスバンドクラブの仲間と蓬平温泉に一泊旅行に行った。このところ色々なことがあって気分が晴れなかったが、旅行中は心身ともに寛ぐことができてとっても楽しかった。万葉集にも詠われた彌彦神社、そして燕三条の鋳物メーカーの店や「久保田」で有名な朝日酒造などを巡り、名物のへぎ蕎麦を食べて解散。参加者は15名、私の学年は一番下であとは年上、なかには、中学以来ずっと会っていなかった先輩もいた。じつに半世紀以上、みな、別々の場所でそれぞれが知らない人々と暮らしてきたのだ。でも、ひとこと話せばあっという間に昭和30年代の中学生に逆戻りして、まるで70歳の中学生。卒業式に「制服の第二ボタンが欲しい」と密かに願った先輩は誰だったかしら……それもはっきりとは思い出せないほど遠い昔のことだ。

ところで、男子生徒の詰め襟や女子学生のセーラー服だが、海軍の制服(軍服)からデザインされたもののようだ。戦前に作られたものを戦後も踏襲し、そして戦後74年を経た現在も使われている。戦前は、学校=軍隊だったのかしら……他にも軍服が学校の制服になった理由はあったかもしれない……などと考える。私は高校に進学しても、冬は紺、夏は白のセーラー服だったので、中学高校と6年間セーラー服を着て学校に通った。私はといえば、ただ単純にセーラー服が大好きだった。

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2019年5月11日 (土)

『ふらんす物語』

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永井荷風の『ふらんす物語』を読む。少し前に『あめりか物語』を読み、内容よりも文章の美しさにひかれた。1903年にアメリカに渡った荷風は、4年間のアメリカ滞在の後、憧れのフランスへと向かう。『ふらんす物語』は発禁になった有名な本のひとつで、書かれてから60年もあとに世に出た。とにかく当時の日本にあれだけ否定的だったら、軍部でなくても抵抗があるだろう。かなりの西洋かぶれで話題といえば娼婦のこと。しかしそれらはかえって当時の日本男性の性向を示しているようで興味深い。

『ふらんす物語』の最後、『悪寒』と題する章に、こうある。「巡査、教師、軍人、官吏……楠木正成の銅像、人道を種に金をゆすって歩く新聞紙、何々すべからずずくめの表札……器量の悪い女生徒、地方出の大学生、ヒステリー式の大丸髷、猿のような貧民窟の餓鬼、昔から日本帝国に対して抱いていた悪感情が……過ぎた夜の悪夢を思い出すように、むらむらと湧返って来た」これは帰国の途に就いた荷風が、しだいに日本に近づきつつある船上で感じた焦燥と諦念だ。楠木正成の銅像まで引き合いに出して、西洋に比べて意識の低い貧しい野蛮国だという、敵意に近い感情を持って語られる祖国日本。続いて、中国で教官をしていた日本男性とその妻子に対する感情的な批判と悪口が続き、そこからアジア全体の悪感情へと発展していく。欧米の植民地となり搾取しつくされたアジアの国々に対する同情、富と力でアジアを奪いつくした欧米に対する怒りは感じられない。しかしそんな荷風が、晩年は日本の文化を愛して日本情緒に浸り、あの小説風随筆の名作『墨東奇譚』を書き残したのだから……

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2019年4月27日 (土)

伊豆の桜

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今年になってはじめて伊豆箱根に行 った。そういえば、この季節に行ったことはなかった。4月5月、伊豆や箱根の風景は目まぐるしく変わり、さまざまな花がさまざまな緑のなかに咲いては散っていく。4月半ば、伊豆箱根は桜が満開だった。伊豆といえば早春に花開く河津桜が有名だが、熱海桜はそれよりも前に咲く。小さな可憐な花がうつむき加減に咲いて、本当に可愛らしい。子どもの頃、庭の片すみに、細い枝にしがみつくように群れて咲く桜があり、母は小梅桜と呼んでいた。そして小指の先ほどの透き通るような丸い真っ赤な実をつけた。19歳の時にそこから引っ越しして以来、小梅桜は見たことがなく、今は幻のようになってしまったが、伊豆の植木屋さんに子どもの頃そんな桜があったと話したら、それは熱海桜かもしれないですね、といった。

箱根や伊豆の山々は緑が盛り上がるようだ。濃い緑、薄い緑、黄色を帯びた緑、赤色や紫色を帯びた緑が入り混じり、そのなかに、ぼーっと霞んだように薄桃色の桜が点々とみえる。山腹に散らばる別荘の、赤や白や青に塗られた三角屋根や丸屋根がきらきらと春の陽に輝く。山暮らしや田舎暮らしにあこがれて都会から流れてくる人たちの安らぎの家々だ。山のはざまから垣間見る富士山は、真っ白に雪を頂いてそれもまた眩しいほど……、青空にはトンビがゆったりと輪を描いている。これから日いちにちと、薄桃色の花は緑のなかに吸い込まれていくのだろう。

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2019年4月21日 (日)

透き通った醤油

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某所の九州フェアで透明の醤油を見た。白いイチゴを見た時以来の衝撃で、すぐに買い求める。これは何だか……何と言っていいのか……怪しく美しい醤油だ。味は醤油本来の風味も少し感じられるが、液体塩こうじに近いかもしれない。でも本当に透明。見れば見るほど透明。昨夜は白い蒲鉾と生のワサビにかけて食する。すごく不思議な気分!

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2019年3月30日 (土)

『備前』

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国立近代美術館工芸館

桜も咲き始め、人出も多くなり始めた今週火曜日、千鳥ヶ淵の東京国立近代美術館工芸館に特別展『備前』を見に行った。備前焼は釉薬をかけずに薪釜で焼き上げた素朴な焼き物で、「窯変」「火襷」「牡丹餅」「胡麻」「桟切」などと呼ばれるさまざまな景色がある。備前焼とは、備前市の伊部地域を中心に作られた焼き物のことをいう。陶芸家は代々「田土」という自家の田んぼの土で陶器を作ってきた。会場は見学者も少なく、室町時代、桃山時代の茶器や花器から、現代の人間国宝の作品まで、美しい「焔のあと」を堪能できた。工芸館の建物は、旧近衛師団司令部庁舎で、明治43年に田村鎮の設計で建設されたゴシック様式。重要文化財に指定されている。近いうちに国立近代美術館工芸館は金沢に移転するらしい。移転後、この建物は何に使われるのだろう。  

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2019年3月22日 (金)

大田区郷土の会

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2011年6月・大田区郷土の会・総持寺散策・石原裕次郎の墓

私が『大田区郷土の会』に入会したのは1980年代の終わりだから、30年ほど前になるだろうか。スペインから帰国して、地域の活動に参加したいという思いで入会した。『大田区郷土の会』を主宰していたのは長島保さんだった。長島先生は高校で教鞭をとるかたわら、「アミガサ事件」など、郷土史研究家として知られ、会員の論文を集めた冊子『多摩川』の発行、毎月の案内通知も、ほとんどひとりでこなしていた。会員も今の倍の人数で平均年齢も若かったし、平野さん、中村敏男さん、大坪庄吾さんはじめ優秀な研究者がたくさんいたが、今はほとんど鬼籍に入っている。また加沢さんには本当に親切にしていただいた。私もさまざまなことを勉強させてもらったし、オーストラリアに転居するまで、『大田区郷土の会』の幹部世話係も仰せつかっていた。この30年間、海外にいて参加できなくてもずっと年会費2000円を払い続けてきたが、昨年、長島先生が他界され、もうこれ以上在籍していても仕方がないと感じ、これを機に退会することにした。『大田区郷土の会』は、昔とすっかり雰囲気も変わってしまったので、私の心も自然に離れてしまったのかもしれない。

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2019年3月12日 (火)

『クマのプーさん展』

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渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで『クマのプーさん展』を見た。昨年の秋に、ニューヨークの公共図書館でプーさんやその仲間のオリジナルのぬいぐるみを見たので、思い切って出かけたのだ。

プーさんの物語はA・A・ミルンが、息子のクリストファー・ロビンのためにロンドン郊外にあるアッシュダウンの森を舞台に描いた童話だ。

「ここはアッシュダウンの森。嵐に吹き倒された老木や朽ちた葉の上に、霧のような氷雨が舞う。人影のない曲がりくねった小道をたどって行くと、時々静けさを引き裂くように足元から鳥が飛び立っていく。高い枝から落ちた雫が水溜りに波紋を広げ、そこに映った森の木々を不思議な幾何学模様に変えている。ぬかるみに芽を出した水仙を踏み潰さないように、苔むした古い切り株につまづかないように……歩きながらポケットのなかのかじかんだ手を握りしめる。もし空が晴れていれば、プーさんとクリストファー・ロビンがハチに追われて小さな水溜りに飛びこんでくる、そんな場面が容易に想像できただろう」(『チップス先生の贈り物』長井那智子(春風社)より抜粋)

ミルンは、『クマのプーさん』『プー横町にたった家』をはじめ、多くの童話を書き、さらにミステリーなども書いた作家。『くまのプーさん』の原題は『Winnie The Pooh』、日本では石井桃子の訳で有名だ。プーさんのぬいぐるみは、息子の1歳の誕生日にミルンがロンドンのハロッズデパートで買い与えたもの。ウイニーとは、1914年にカナダからロンドン動物園にやってきた黒いくまの名前。クリストファー・ロビンはウイニーが大好きだったという。

会場には、物語にも登場するアッシュダウンの森にある橋、プースティックス・ブリッジを模したものも展示されていた。

 

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「道は少し下り坂になり、川に架かった木の橋に出る。ここがプースティックス・ブリッジ。クリストファー・ロビンとプーさんが、橋の川上から木切れを落とし、どちらが速く反対側に流れてくるかを夢中になって競い合った場所だ。四十年前、私も妹と同じ遊びをした思い出がある。私たちが流したのは、春になると野原一面に咲いていたヒメジオンの花だったけれど……」(『チップス先生の贈り物』長井那智子(春風社)より抜粋)

因みに、シェパードの娘、メアリー・シェパードはトラヴァースの小説『メアリー・ポピンズ』シリーズの挿絵を描いたことで知られている。画風はあまり似ていないが、どことなく共通するところもあって興味深い。

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