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2012年2月16日 (木)

森茉莉

 森鴎外の長女茉莉さんと祖母は1903年(明治36年)生まれの同い年だ。まだ30歳代のころ、ふたりは一緒にお芝居に行ったり音楽会に行ったり、お互いの家を訪ねあったりして親しくしていた。当時、茉莉さんは千駄木の実家に家族と住んでいて、茉莉さんの家と祖父母の家は歩いて10数分の距離にあった。
 茉莉さんはフランス語の翻訳をしたり(翻訳のことから祖父との交流が始まり祖母とも親しくなった)、雑誌にエッセイを書いたりしていた。昭和8年8月17日の祖父の日記に、「…茉莉さんが立ち寄り、明日妻を芝居に連れて行くとのこと…」とあり、翌18日には「…夕方になり、妻はいそいそと洋装で出かけ11時頃帰宅。『弥次喜多』がとても面白かった由…」と書かれている。その年の茉莉さんの著作リストに『演芸画報』に寄せたエッセイ『弥次喜多』があるのを発見してちょっと興味深かった。
 早稲田大学図書館紀要第48号に祖母のインタビュー記事がある。「茉莉さんは本当に、何でもおっしゃるの。内部事情なんかも伺ってますけど、しゃべって良いものだか悪いものだか…」、祖母は茉莉さんの屈託のなさや豊かな感性が好きだったのだろう。
 戦後、茉莉さんはすべてを失い、独りでアパートの間借り生活を始める。けれどもエッセイ集『贅沢貧乏』にあるように、茉莉さんの空想世界のなかでは、塵だらけの借間もパリのアパルトマンの一室と同じだった。茉莉さんは杉並から世田谷の代沢、経堂と移り住み、『恋人たちの森』『枯葉の寝床』『甘い蜜の部屋』などの恋愛小説を書いた。そうして50歳代後半から小説家として脚光を浴びるようになる。それら夢のような恋愛小説の主人公たちは、大人の男と美少年、父親と美しく奔放な娘という常識を越えた組み合わせだった。もちろんフランス文学の影響もあるだろうが、当時としては画期的な発想だった。
 先日、茉莉さんが足繁く通ったという代沢の喫茶店『邪宗門』に行った。茉莉さんは決まった席に座って、毎日のように原稿を書いていたという。茉莉さんよりも20歳くらい年下だというご主人の作道明さが、茉莉さんからきた何10通もの手紙を見せて下さった。白い便せんや時には原稿用紙などに書かれたそれらの手紙…(祖母宛ての手紙とはちょっと趣が違う)、そのなかの1通が差出人「森田」となっている。なぜと聞いたら、奥さんに悪いからといったそうだ。お茶目で可愛い人だったのだろう。
 その足で、経堂の「フミハウス」へ向かった。2階建ての鉄筋アパートで今も人が住んでいる。茉莉さんが独りで亡くなり、2日後に発見された終の棲家…享年84歳だった。

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