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2018年2月

2018年2月21日 (水)

モネのしだれ柳

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クロード・モネの絵といえば睡蓮かもしれないが、ジヴェルニーの庭の睡蓮池の畔には、しだれ柳が植えられていた。Weeping Willow(しだれ柳)は、 18世紀初めにヨーロッパに持ち込まれて以来、ずっと死と服喪の象徴だった。それはしばしば女性として擬人化された。私にとって、「柳」は子ども時代の「銀座通りの並木」なので、幼いころに沁みついた明るくて洒落たイメージがあるのだが。
モネが影響を受けたという1847年に刊行された挿絵画家のJ・J・グランヴィルの『擬人化された花』のなかの散文詩の一節。
Come into my shade, all you who suffer for I am the Weeping Willow.
私の影にお入りなさい 苦しむ人々はみな、私はしだれ柳なのだから・ 私は小枝のうちに優しい顔の女性を忍ばせている・彼女の金髪は額にかかり 涙に濡れた目を覆う・彼女は愛した人すべての無言の想い・……彼女は死に触れられた人々の心を慰める
もうひとつ、モネに影響を与えたアルフレッド・ド・ミュッセの1835年の詩『ルーシー』
親しき友よ 私が死んだら・墓に柳を植えて欲しい・私はその嘆き悲しむ小枝が好きだ・その青白さはなんと心ひかれることか・そしてその影は優しく・私が永遠に眠る土の上に
しだれ柳は、ミュッセが1857年に他界した時、実際にペール=ラシェーズの墓のそばに植えられたが、19世紀のガイドブックには、この「有名な柳」(多分、当時はフランスで最も有名な木だった)は、しばしば旅行者によってその葉や枝が持ち去られ、丸坊主になっていたとあるそうだ。

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2018年2月 7日 (水)

つぬけの会

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銀座1丁目の「柴田悦子画廊」で催されている絵画展『つぬけの会』(今月11日まで)に出かけた。案内には「釣り好きで、東京藝術大学出身の5作家の作品展」とある。因みに「つぬけ」とは、釣り用語で、釣果を数えるのに1から9までは「ひとつ」「ここのつ」など「つ」がつくが、10になると「つ」がつかなくなるところから10尾目を「つぬけ」たというそうだ。こじんまりした画廊で、友人知人が集まり楽しげな雰囲気。でも時折り、たまたま通りがかったような何気ない感じで入ってきてひとつひとつをゆっくり眺めて出ていく人がいて、きっと絵画の目利き、玄人なんだな、と…。ちょっとパリの裏通りを思わせる雰囲気のある古い画廊で、5人のプロ作家の繊細な作品を見ることができてとても良かった。壁に魚が泳いでいる…あっちの壁には桜が咲いて、こっちの壁にはスペインの白壁の家…。

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2018年2月 4日 (日)

『ダフニスとクロエ』・ロンゴス

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パリ・オペラ座の天井画・シャガール画

 

『ダフニスとクロエ』を読んだ。ルーブルの美しい彫刻やラヴェルのバレエ音楽、そして三島由紀夫の『潮騒』や北杜夫の『神々の消えた土地』は、この物語を念頭に置いて創作されたものだということは知っていたが、『ダフニスとクロエ』そのものがどういう物語なのかは知らなかった。今回、ある方からシャガールのリトグラフ『ダフニスとクロエ』42枚を紹介され、読まなければ!という気持ちになった。舞台はエーゲ海のレスボス島。親に捨てられ山羊に育てられたダフニスと、同じ境遇で羊に育てられたクロエの恋物語だ。ふたりは、恋敵に邪魔されたり、海賊に襲われたり、戦争に巻き込まれたりとさまざまな困難に出会う。けれどもついに、ダフニスはミュティレーネーの大富豪ディオニューソファネースの息子で、クロエもまた富豪メガクレースの娘とわかり大団円となる。これはギリシャ語の小説で作者はロンゴス。3世紀ごろに書かれたという。
昨日の朝、『ダフニスとクロエ』のことを教えて下さった方から小さな荷物が届いた。なかには1冊の本、英語版『シャガール・色彩と音楽』が入っていた。彼女は私が尊敬する先輩のひとりで、シャガールを愛するとてもエレガントな女性だ。高校も大学も同窓で、ロンドンにも長い間住んでいらした、私の先を行く方である。

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2018年2月 1日 (木)

『雪国』・川端康成

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国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった……小説『雪国』の冒頭である。季節は初冬、島村は越後湯沢温泉の芸者、駒子のもとへ向かう汽車のなかで葉子に出会う。通路をへだてた席で病気の青年の看病をする葉子の姿が、夕闇を背景に汽車のガラス窓に浮かび上がる。葉子の顔のただなかに野山のともし火がともる……『雪国』は若い頃に繰り返し読んだが、この年になってまた読むと、この小説のただならぬ魅力に惹きつけられる。物語は、葉子が燃えさかる繭蔵の高みから落ちたところで終わっている。気を失った葉子を胸に抱えて戻ろうとする駒子は、まるで自分の犠牲か刑罰かを抱いているように見える。葉子は駒子の化身、もしくは精神、内面ともいえるもうひとりの駒子なのだ。作者自身も「駒子は実在するが葉子は実在しない。葉子は作者の空想である」といっている。青年は病死し、葉子は狂気に陥り、やがて島村と駒子の別れがくる。芸者駒子に対する島村の愛は憐憫である。駒子の自分への愛情を美しい徒労のように思う時、島村自身も空しさに襲われる。それでもなお駒子の生きようとする命が熱く迫ってくると、島村は、駒子を哀れみながら自らをも哀れむのだ。貧しく美しい者に対する憐憫はそのまま自己憐憫へとつながる。この小説の全編に降り積もる見えない観念的な雪。登場する人々も冷たく凍えた心を抱えながら温もりを求めている……東京も、今夜は予報通りの雪になるのだろうか。

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