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2018年3月

2018年3月29日 (木)

板東ドイツ人俘虜収容所

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収容所跡

 

徳島では、モラエスゆかりの地ともうひとつ、第一次世界大戦時に板東にあったドイツ人俘虜収容所跡を見たいと思っていた。中国のチンタオで拘束されたドイツ人兵士(なかには市民もいたらしい)953人が、大正6年から9年にかけて板東の地に収容されていた。
大麻比古神社の拝殿の裏庭には、移設された小さなめがね橋があり、さらに奥に石積みの「小谷のドイツ橋」がある。これも橋にしては小さいものだが、めがね橋とともに捕虜になったドイツ兵が造ったという。板東ドイツ人俘虜収容所跡は、山に囲まれた田園のなか、小高い丘の下にあった。今は兵舎の土台だけが残り、丘の上には当時造られたここで死亡したドイツ兵の慰霊碑がたっている。当時、ドイツ兵と地元住民との交流が盛んで、演奏会や演劇などが頻繁に催された。そのひとつにベートーベンの第九交響曲の初演があった。ドイツ兵たちが日本で(アジアで)初めてベートーベンの第九をこの地、板東で全曲演奏したのだという。他にもバターやチーズ、ソーセージやパンなどの製法も伝えられ、収容所内には印刷所も設けられ多くの印刷物も作られた。それはひとえに所長の松江豊寿の人道的配慮があったからだ。実際、日本にあった他の収容所に比べて、破格の扱いだったようだ。
第2次世界大戦後、旧兵士ライボルトの一通の手紙から、再びドイツと大麻町の交流が始まり、昭和51年にはドイツ人の手によって、収容所の丘の上に日本各地で死亡した85人のドイツ兵の新しい慰霊碑がたてられた。
徳島から帰京して、板東ドイツ人俘虜収容所を舞台にした映画『バルトの楽園』を見た。バルトとは髭のこと。松江豊寿所長、そしてドイツ人俘虜と地元民の交流などが描かれる。

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2018年3月24日 (土)

W・デ・モラエス(2)

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潮音寺のモラエスとヨネ、コハルの墓

 

モラエスは1854年にポルトガルのリスボンで生まれた。父は高級官吏、母は軍人の娘で、モラエスは海軍学校を卒業して海軍士官となる。マカオ在住中にデンマーク人の父と中国人の母をもつ亜珍と同棲して2人の息子を得る。軍人ながら学者、文筆家としても力を発揮。軍人から役人に転身して日本に移住し、後にポルトガル領事館の初代領事となった。モラエスはキリスト教徒(カトリック)ではなかった。宗教に対する意識は非常に覚めていて、それだからこそ、いわゆる日本の「異国情緒」に惹かれたのだろう。「不思議なことに…日本人は神道信者として生まれ、仏教信者として死ぬ…」とある。客観的にみれば、まったくその通りだ。
モラエスがはじめて日本に来たのは1889年、35歳の時だった。長崎港に船が近づいていくと、山を覆う木々の緑の深さに目を見張る。これはよく理解できる。日本で暮らしていると当たり前の風景だが、日本の緑は熱帯の緑とも違う趣がある。スペインから6年ぶりに帰国した際、日本の緑は何て美しいのだろうと感動すると同時に、心に重く傾れかかり鬱陶しいほどだと感じたことを思い出した。
モラエスの著書を読むと、非常にラテン的なウエットな人だと感じる。ラテン系の人々はドライで現実的だと思われがちだが、実はものすごくウエットで傷つきやすい。モラエスはヨネに対してもコハルに対しても、心から「追慕」する。『おヨネとコハル』に、コハルの死を、優しさと哀れみをもって書き記している。「忘却も追慕の苦しみに対する良薬とはならない。ただ1枚のベールのように隠すだけ。微風が吹けば波打ち、遠い過去をあらわにしてみせる…」.さらに、日本人の死に対する意識を神秘的だと捉える。たとえば切腹という自殺、心中という自殺、そして一番怖いのは、意地悪な姑にあてつけるために子どもを道連れにして死んで見せること、それは理解できずただただ恐ろしい、と。

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2018年3月21日 (水)

W・デ・モラエス(1)

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写真は「和田の屋」

 

若い頃、賑やかな阿波踊りの雑踏のなかに佇む、背の高い孤独なポルトガル人の姿を思い描いては、哀感をそそられたものだ。いつかモラエスが暮らした徳島に行きたいと思いながら、長い間機会に恵まれなかった。でもついに行ってきた!モラエスはポルトガルでも著名な文筆家だ。図書館で、モラエスの著作を3、4冊、瀬戸内寂聴の戯曲『モラエス恋遍路』、そしてモラエスを主人公にした新田次郎の未完の小説『孤愁』を借りて読んだ。これは最後の部分を藤原正彦が父親のあとを書き継いで完成させている。
朝、羽田を発って、徳島阿波踊り空港(今や空港までキラキラネーム)に着いたのは10時15分。まずは「徳島県立文学書道館」へ。モラエスの資料は思ったよりも少なかったが、瀬戸内寂聴はじめ徳島に関係のある作家と書家の資料が並んでいた。そこからモラエスとヨネゆかりの春日神社の焼餅屋「和田の屋」(当時は「米善」という名の茶店)に行き、菊型が焼きつけられたあんこ入りの餅を食す。店の人は、今年は雪がひどくて黄色い5弁の花をつける黄花亜麻がだめになりました、といっていた。滝も水が枯れている。モラエスとヨネがここで再会したというブラジル領事館員コートの証言があるらしいが……ともかく1900年、当時神戸のポルトガル領事館に勤務していたモラエスはヨネと結婚し、領事館に近い山手通りで暮らし始めた。1912年にヨネが他界したあと、モラエスはヨネの郷里徳島へ移り住み、ヨネの姪コハルと同棲する。けれどもコハルもまた1916年にヨネと同じ結核に侵され、23歳の若さで他界した。モラエスはふたりの墓を守りながら徳島で暮らし、75年の生涯を終えた。「和田の屋」から歩いて10分ほどの「潮音寺」境内に、コハル、モラエス、ヨネと3つの墓が並んでいる。しかし寺は趣もなく、区画整理されて墓石もまばらだ。モラエスが歩いた道や住んでいたあたりを巡って、ロープウエイで眉山に上り徳島の町を見下ろす。何といっても雄大な吉野川が美しい。

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2018年3月 9日 (金)

冬の終わり

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2月最後の日の明け方、久しぶりに夢を見た。今は亡きK先生だったのかしら、確かにそうだ。先生が私のところに訪ねていらした。私は他の訪問者のためになかなかお話しすることができない。自分の家のようで自分の家ではない大きな建物のなかを右往左往しながら、それでも先生を待たせている。とても気にしながら。そしてようやく人々が去ってK先生とお話しする。先生は、この部屋の軸は固いですね、とおっしゃる。不思議な言葉だ。私はカーテンを開け、先生と並んで大きな窓の外を眺める。カーテンを開ける場面が何度も何度も繰り返される。そして、最後に一番奥の部屋の暗い色のカーテンを引き開ける。窓の外には夕闇が迫っている。目の前に大きな木々が逞しく葉をひろげているのを先生と一緒に眺めている。やがて先生は帰り支度をはじめ、私は一緒に外に出る。先生のお宅は近いのだからお送りしよう、せめて途中まで、と思っている。先生は杖を突いてゆっくり歩く。白髪で眼鏡をかけていらっしゃる。……目覚めの薄暮のなかで急激にうすれていく夢の記憶の最後に、先生は、来なくてもいいよ、私はひとりで帰れるから、とおっしゃって……。2月は黄泉の国に近い。キリスト教では10月かもしれないけれど、日本ではきっと2月だ。私の大切な人、私を導いてくれた師、親しい友人たちも2月に逝ってしまった。どこか薄暗くて重い静かな空気が地に充ちているのに、空だけは輝いて日ごと抜けるような青。その地と空のあいだに、気がつけば白梅や紅梅の花が満開だ。

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