日本文学

2017年3月28日 (火)

『南総里見八犬伝』・伏姫の洞窟

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写真は伏姫篭穴

 

毎年2月になると、なぜだか海が見たくなる。天が透き通るばかりに晴れた日の群青色の荒布のような海。冷たい海水が水の生物を静かに眠らせ、太陽の光だけが燦々と降りそそいで水面を煌めかせている海。今年もそんな海が見たくて、2月のある日、南房総に出かけた。

なぜ南房総かといえば、海だけではなく『南総里見八犬伝』ゆかりの地を見たいと思ったからだ。午前中に家を出て東京湾のアクアラインで木更津をめざす。そこから南へくだって岩井の近く、富山の「伏姫篭穴」を見て、里見家の城として登場する「滝田城址」へ向かった。夕刻、洲崎灯台に行って海を眺めた。うっすらと遠く富士山が見え、海は期待していたよりもっと美しかった。

『南総里見八犬伝』は史実と架空の物語を織り交ぜた長編小説。滝沢馬琴が28年にわたって書き続けた98巻の物語だ。序章は史実を絡めてはじまる。1441年の結城合戦で敗れ安房に落ち延びた里見義実は、逆臣山下定包と戦いそれを打つ。義実は定包の妻玉梓に命は助けると告げるが、のちにその言葉をひるがえして首をはねる。玉梓は里見を呪い子孫を畜生道に落とすと言い残す。そして怨霊となって里見家に祟る。1457年、安西景連が攻めてきたときに、義実は飼い犬の八房に、景連の首をとってきたら娘の伏姫を与えるというと、八房は勇んで出ていき景連の首を取ってきた。そして伏姫と飼い犬の八房は夫婦となって洞窟に棲む。それが富山の「伏姫篭穴」というわけだ。しかしながら、『南総里見八犬伝』は、なんといっても架空の小説。架空の物語の舞台となった洞窟が実際にあるとは……。余談だが、『ドン・キ・ホーテ』にでてくる「モンテシーノスの洞窟」を連想した。スペイン、ラ・マンチャ地方のルイーデラ湖畔には、架空であるはずの「モンテシーノスの洞窟」が実在する。

車を降りてかなりの山道を登っていくと、さらに高い石段の上に洞窟があった。入り口は狭いが中は立って歩けるほどの広さだ。物語では伏姫は洞窟で8つの球を産み落とし、それらが関東一円に散っていくのだ。暗い洞窟に佇み、ここには物語のヒントとなるようなできごとがあったのかもしれないなどと考える。たとえば、伏姫を助けた飼い犬の八房とは、身分の低い下郎のことだったかもしれないし、また、当時は双子でさえ犬猫のようだなどと忌み嫌われた時代、双子や三つ子を産んだ母親が世間体を気にする家族の者たちからこんな洞窟に閉じ込められた、などというようなことがあったかもしれないのだ。人の心は常に暗い虞のために慄いている。それゆえの差別と偏見に満ちたできごとも多くあったことだろう。

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2017年3月 3日 (金)

小田原「だるま」と川崎長太郎

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先日、小学校時代の友人たちと箱根に行った。何といってもみな60年ほど前に出会った友人たち……心置きなく笑えて、本当に楽しい旅行だった。

途中、小田原の老舗料理店「だるま」で昼食をとる。「だるま」は私小説家、川崎長太郎が足しげく通った店だ。父は小田原の魚卸し業者で、漁師から活きのいい魚を仕入れては、箱根の旅館やホテルに天秤棒を担いで売りにいった。家業は弟が継ぎ、手広くやっているかと思うと借金をかかえる、という繰り返しだったが、晩年は小田原の市会議員まで務めた。長太郎はひとり、浜辺の掘っ建て小屋で暮らし、ろうそくの火で手を温めながら小説を書いた。

「だるま」は天丼やちらし丼が有名な店で、川崎長太郎は「栄養があるから」とちらし丼をよく食べていたという。自選全集Ⅱのなかに『蝋燭』という短編があり、「だるま」の女中たちに言い寄る川崎自身のことがながながと書かれているが、昔は飲食店や旅館の女中は、私娼街の女たちとそう変わらない立場だったのかもしれない。川崎の短編には、戦時中の苦労や芸者とのごたごた、夫の小説を持参してきた人妻と恋仲になって湯ケ野へ出かけたことなどさまざま書かれていて臨場感がある。小説と随筆の違いが、小説は架空のもので随筆は筆者の実体験から得た感慨を述べるものである、とすると、私小説といわれるものは随筆に近く、例えば荷風の『墨東奇譚』などもそうであろう。一般的には色々な意味で、私小説はあまり高く評価されないが、川崎長太郎の小説は、文章に稀にみる力と独特の美しさがあり、小田原の町の生き生きとした様子が、作者の目と耳と肌を通してくっきりと浮かびあがってくる。潮騒が微妙に変化する音、私娼街の三味線の爪弾きと女の濃厚なおしろいの色、料亭の魚料理の匂いや仲居の足袋をする足音……それらを読んでいると、小田原は遠い夢の町のように美しい。

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2016年11月22日 (火)

『濹東綺譚』*永井荷風

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私は就寝前に必ず本を読む。『濹東綺譚』は何度も繰り返し読んでいる愛読書。

下町は玉の井の寺島というところ、汚い溝(ミゾではなくドブと読む)際の、蚊がむらがる小さな家に寝起きして春をひさぐ、お雪という美しい娘と「わたくし」の物語だ。晩年の「わたくし」が、小説『失踪』の構想を練りながら、お雪のもとに通い続けたのは夏から秋にかけての、ほんのみつきほどのこと。そして足が遠のいた9月の終わりには、お雪が病んで入院していることを聞く。そしてその10月は、「例年よりも寒さが早く来た」のだった。

11月も「小春の好時節になった」ある朝、「窓の外に聞える人の話声と箒の音とに、わたくしはいつもより朝早く眼をさました」それは「隣の女中とわたくしの家の女中とが…話をしながら…落ち葉を掃いているのだった」。思えば、親しい人々は逝ってしまった。まるで落ち葉が散るように。せめて今日は彼らの墓の上に積もった落ち葉を掃いに行くことにしよう、私もすぐに彼らの後を追うことになるのだから……。というわけだが、なんでもないことが書かれているのに、なんと美しい心に沁みる読み物だろう。

しかしながら私は荷風先生のようなわけにはいかない。朝まだき、落ち葉を掃く音と人の声を聞いたら、すぐに箒をもってとびだしていかなくてはならない。近所の人たちが皆で道を掃除している。私も掃かなくては。

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2016年10月10日 (月)

『幻の朱い実』石井桃子

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石井桃子は童話『ノンちゃん雲に乗る』や『熊のプーさん』の翻訳などで知られる児童文学作家だ。『幻の朱い実』は、87歳で書きあげた最初で最後の長編小説。戦前に青春時代を送った女性たちの話で、地味な小説だが不思議な魅力がある。「朱い実」は烏瓜(カラスウリ)のこと、ほとんど石井桃子自身の私小説らしく読める。

語り手明子と結核で早世する明子の女子大の上級生蕗子、そして第3部に頻繁に登場する蕗子の友人加代子。第1部と第2部では、明子と蕗子、ふたりの若い女性の友情を越えた深い愛が描かれる。出会って間もない蕗子と明子は、房総の宇原という村でひと夏を過ごす。そこは『房総文学散歩』(毎日新聞千葉支局編)によれば、勝浦の部原(へばら)らしい。

蕗子が自らの健康を省みずに他人のために尽くすのを見て、明子は蕗子の気持ちを疑い、それまで決めかねていた結婚を決意する。「明子は蕗子を見失った。それは足のひょろつくほどの頼りなさだった」だから「節夫(結婚相手)にとりすがったのではなかったか。明子は後ろめたさにため息をついた」。明子は結婚してもなかなか夫に打ち解けなかったが、ついに子どもができて成長する。それを知った蕗子は明子が子どもを産むことに、まるで嫉妬するかのようだ。なにがあっても明子は蕗子のことを忘れた日はなかった。蕗子に対して明子は「愛している、という日本語としては馴染めない言葉をいうしか」なく、蕗子が死んだら本当は「あなたの手に触れたものは全部欲しい、と言いたい」と思うほど愛は深かった。

蕗子がこの世を去って50年後、蕗子の友人加代子は「とても楽しかった、あなたみたいに色っぽい人と暮らせて」と蕗子にいわれたと笑い、「あの人は、『女の中の男』だから」という。ともに蕗子を愛したふたりは、古い手紙に綴られた蕗子の病と孤独に今さらながら心を痛める。そして次第に明らかになっていく蕗子の激しく奔放な恋愛……。明子と蕗子そして加代子、早世した蕗子をめぐる3人の深い愛情関係が優しい思いやりを持って描かれる。

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2016年9月19日 (月)

『オリンポスの果実』田中英光・2

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先日、某文学継承会のメンバーと伊豆三津浜の安田屋旅館へいった。安田屋旅館は、太宰治が太田静子の日記をもとに、小説『斜陽』のはじめの2章を書いた文化財建築の古い宿だ。

この旅館を太宰に紹介したのは、後に『オリンポスの果実』を書いた田中英光だった。田中は文部省高官の父と伯爵家血縁の母のもとに生まれたが、オリンピックから帰国後、左翼運動に傾倒していく。

伊豆に疎開していた田中は、安田屋旅館の主人とその頃に親交を深め、太宰も滞在することになったのだ。昭和22年の2月27日から3月6日までのこと。太宰の部屋は2階の角部屋「松の弐」で、田中はその下の部屋に滞在してそれぞれ原稿を書いたという。昭和23年、太宰は女性を道づれに自ら死を選んだが、田中は太宰と同じように妻以外の女性と同棲し、同じようにカルモチン中毒になり、太宰の死の翌年、墓前で自らの命を絶った。

安田屋旅館には数年前にも泊まったことがある。廊下の突き当りの手水場に八重のどくだみがひっそりと活けられていて、静けさがいや増すようだった。窓の外には、淡島と富士山を逆さにうつした穏やかな海が広がり、その向こうへ、空を真っ赤に染めながら夕日が沈んでいった。

今回、安田屋旅館の玄関を入ると、以前とまったく雰囲気が変わっているのに驚いた。とにかく若い人たちが多く、みな、気楽な格好で出入りしている。入って左手の壁に大きな眼の女の子たちが描かれた数枚のアニメのポスターが張ってあり、その傍に置かれた交流ノートに一生けんめい何かを綴っている青年が……。きけば、『ラブライブ・サンシャイン』という漫画があり、それをテレビで放映し始めたとのこと。その舞台のひとつがこの安田屋旅館で、主人公のひとりがこの旅館の娘という設定らしい。気分を味わうために、日帰り温泉にくる若い女性も多いとかで、太宰治も顔色なし、というところ。私たちは文学を愛好する仲間だが、こういうものに心惹かれてやってくる人たちもいるのだ。そうはいっても、興味のあるものに対する好奇心や、夢や憧れの根本は、つきつめれば文学も漫画もそして老人にとっても若者にとっても同質のものであるに違いない。まぁ……夢の深さや色合い、その成熟度や完成度は、やはり少し隔たっているような気もするが……。

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2016年8月24日 (水)

『オリンポスの果実』田中英光

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リオのオリンピックも華やかに閉会したが、1940年(昭和15年)に発表された『オリンポスの果実』という美しい青春小説を知っている人は少ないかもしれない。作者の田中英光は、1932年にロスアンジェルスで開催された第10回オリンピックに競艇の選手として参加した。当時は早稲田大学の学生だった。スポーツ選手らしくないあまりにも繊細な感性が禍してか、1949年の秋、師と慕っていた太宰治の墓前で自ら命を絶つ。享年36歳だった。この小説は、オリンピックに出場することになった主人公の青年の喜びと戸惑いが、そして、ハワイに寄港しロスアンジェルスに向かう船のなかで芽生えた純真な、けれども熱烈な恋が、追憶の形式をとってこと細かに描かれる。なかには美少年の上原がアメリカ青年に誘われ、裸で戯れの相撲をする様子が「アポロとヘラクレスのよう」で、見ているほうも「その美しさに色情的な悩ましさを覚えたほど」などともあり興味深い。青年らしい潔癖な文章の魅力があり、オリンピックに参加する当時の若者たちの自負、そして競技に負けた口惜しさが直に伝わってくるようだ。戦後はオリンピックも回を重ねるごとに大掛かりになって、当時とは内情も違っているのだろうが、この小説から感じられる「過ぎ去った時代のロマン」とでもいうようなものが、深く心に滲みてくる。

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2015年11月10日 (火)

『火の路』上・下(松本清張)を読みながら

 

奈良のH先生に面白いですよ、と勧められた松本清張の『火の路』上・下を読み終えた。1973年から14ヶ月にわたって朝日新聞の朝刊に連載されたもの。新進の女性考古学者の論考、国立大学の学閥主義の陰険さと骨董品の裏取引き、盗掘と贋作、それらにからまる秘められた恋とその犠牲者を含む人間模様、という3段構造になっている推理小説だ。

飛鳥に点在する謎の石造物から、斉明期にゾロアスター教(拝火教)の祭壇を作るために新しい宮に移ろうとしていた、仏教を擁護する他の天皇と異なり、斉明天皇だけはゾロアスター教を拝していた、と仮定する女性考古学者が主人公だが、私はそれを読みながら、ふと、エジプトのツタンカーメン王の父アメンホテプ4世(イクナトン)のことを思い出した。

エジプトに行ったのは2002年の暮れだった。目的のひとつは、エジプト考古学博物館にある「イクナトン像」を見ることだった。

イクナトンは、BC1300年代、それまでのアモン神を中心とした多神教をやめ、太陽神アテンを唯一神とすることに定め、テーベ(ルクソール)をはなれ、テル・エル・アマルナに遷都した。テーベ(ルクソール)の神官たちを遠ざけるという意図もあったのだろう。その子、ツタンカーメン王はふたたび都をテーベに戻したので、テル・エル・アマルナは10年間だけの首都だった。

その10年間は宗教的にも文化的にも不思議な時代である。イクナトンの石像は、なんと形容して良いかわからないが、光り輝くようにおおらかだった。じっと見上げていると、じっと見返されているような錯覚に陥る。大きな銀杏型の目は、確かに私を見おろしていた。どこか放心したように遠くを見ているラムセス2世像の目とは明らかに違う、目の前にいる人間を見つめる目……美しくて迫力があって、その時期にしか造られていないという不思議もあり私はすっかり見とれてしまった。

いったいどんな芸術家がこれを彫ったのだろう、少し、メソポタミア風でもあり、また、中近東あたりの像にも似ている。もしかしたらアラブや中央アジアの芸術家が紛れ込んでいたのかもしれない……などと思ったものだ。

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2015年10月16日 (金)

上高地・河童橋

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雨の河童橋

 

今回の旅行のもうひとつの目的は上高地の「河童橋」。諏訪から松本に向かうあいだに空模様はすっかりあやしくなって、パーキングに着いた頃から雨がぽつぽつ降りだした。車を置いて、タクシーで上高地帝国ホテルに向かう。釜トンネルを抜けると突然、赤い山肌の焼岳が姿をみせ、雨に濡れて静まりかえる大正池が左手に見えてくる。子どもの頃、水中で立ち枯れた白樺の写真を見て神秘的だと感じたものだったが、今はもう、ほとんど木々は腐ってしまったという。

ホテルに着いて部屋に落ち着いたあと、「河童橋」まで歩こうということになった。ホテルで傘と雨合羽を借りて出ていく。木道をわたり、梓川のほとりの道を20分ほど歩くと「河童橋」。「河童橋」は明治43年にはね橋から吊り橋にかけかえられた。現在の橋は5代目だという。

芥川龍之介の小説『河童』はまさしくここが舞台。上高地から穂高に登ろうとした男が、梓川のほとりで霧に迷い河童に出会うところから始まる。自殺の直前にまとめられた最後の小説だ。芥川の憧れの人であった片山廣子も、この小説に限りない愛着があったのだろう、のちに廣子は『カッパのクー』を翻訳している。きっとこの小説をとおして芥川の心を理解したのだと思う。

それにしても雨である。ホテルに戻るころはひどい嵐になった。夜半も、吹き荒れる風雨の音で目が覚め、うとうとするとまた目が覚めるという繰り返しだった。けれども翌朝は、穂高の上の空は雲が切れて、美しい青空がのぞいていた。

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2015年10月 8日 (木)

『犬神家の一族』横溝正史

大正から昭和にかけて従業員や地域の人に配ったといわれるらくがんの復刻

 

7、8年ほど前、横溝正史の小説『犬神家の一族』を取り上げて文学エッセイを書いた時に「片倉館」のことを知った。横溝正史は昭和のはじめに5年間ほど結核の転地療養のために諏訪に滞在した。その経験をもとに、戦後書かれたのが『犬神家の一族』。「信州財界の一巨頭、犬神財閥の創始者、日本の生糸王といわれる犬神佐兵衛」の臨終の席に、胸に複雑な思いを抱えた一族が集まる。やがて読み上げられる遺言。そして次々におこる家宝「斧・琴・菊」に託けた殺人事件。事件は金田一耕助の活躍によって解決するのだが……明かされた謎は、そして真犯人は……。

製糸業で成功した諏訪の財閥から発想を得て『犬神家の一族』を書いた横溝正史だが、片倉家のほうでは少々困っている様子。主人公の犬神佐兵衛は出自も知れぬ孤児で、諏訪の那須神社の境内で行き倒れになっていたところを宮司の野々宮に助けられる。佐兵衛は美しい少年だった。佐兵衛は野々宮と衆道の契り(男色)をむすぶが、やがて野々宮の妻の晴世と愛し合うようになり、祝子という女の子を得る。その娘の「絶世の美女」珠世がこの物語の主人公だ。3人の妾に産ませた3人の娘とその息子たちを巻き込んだ醜い遺産争いから次々と殺人事件がおこり……などというのだから、片倉家に関係のある人たちにとっては戸惑いを禁じ得ない。製糸業で財を成した、実在する一代目片倉兼太郎は、諏訪地方の岡谷の豪農の出身で、代々、諏訪の名士だったのだから。

横溝正史は多くの探偵小説を書いた。今は、ミステリーなどというが、横溝正史は江戸川乱歩を継承する「探偵小説作家」。もう40年以上も前になるだろうか、寝ることも食べることも忘れてひたすら読みふけったものだ。

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2015年5月18日 (月)

『笛吹川』深沢七郎

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石和温泉の街並み

 

息子の小学生時代のPTA(今はPTAとはいわないのかもしれないが)の仲間と毎年1回小旅行をするのだが、今年は石和温泉だった。石和温泉駅前のロータリーは色とりどりのバラが満開で、昔の歓楽街のイメージからはほど遠い。行き先が石和温泉と聞いて、深沢七郎の『笛吹川』を読もうと図書館から全集を借りた。「笛吹橋の石和側の袂に、ギッチョン籠と呼ばれているのが半蔵の家だった。敷居は土手と同じ高さだが縁の下は四本の丸太棒で土手の下から支えられていて、遠くからは吊られた虫かごのように見える小さな家だった……」とはじまる『笛吹川』、時代は、信虎、信玄、そして勝頼が戦死して武田家が滅亡するまでの約65年間、石和の農民一家三代にわたる物語だ。石和は作者の深沢七郎の故郷。笛吹川の洪水に悩まされ「お屋形様」に虐げられても、結局、最後はこうして自分たちがあるのも「お屋形様のおかげ」と、勝頼に従って死んでいく農民たちの有様が描かれる。貧しい家に、最後に残されるのは老父だけだ。いうまでもないが、深沢七郎は『楢山節考』を書いた作家だ。

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