馬込文士村の作家・作品

2014年4月 9日 (水)

講演2

 2月にひき続いて3月は図書館で講演。内容は「翻訳者としての村岡花子」。
 前回と同じような内容だったが、今回は講演原稿も少し書き直した。
 主催者側からも「参加者の皆さまにアンケートを行いましたが……お話が大変好評でした。とても満足いただけたようです」と嬉しいメール。
 とにかくほっとして、1週間連続のお花見に突入しました。

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2014年1月 5日 (日)

片山廣子とおみくじ

 元日の朝、近所の神社へ初詣にいく。近所とはいっても源氏が旗揚げをしたという言い伝えのある古い神社なので参拝者は長蛇の列だ。
 人だかりのする社務所の前で、男の子がおみくじをひいているのを見て、片山廣子の随筆、『迷信の遊戯』や『うちのお稲荷さん』を思い出した。そのなかに「私はおみくじが好きだ」と書かれているのだ。はじめて読んだ時、神だのみなどには無縁だろうと思われるあの聡明な片山廣子がおみくじが好きだとは……と、かなり印象的だった。
 よせばいいのに、ふと私もひいてみようという気になって100円玉を出す。おみくじの筒はふたつあり、奥に置かれていたものに手を伸ばしてがらがらとふった。でもなかなか棒が出てこない。少し頭が出てきたのでむりやり引っ張り出すと「小吉」とでた。
 あーぁ、と思う。金運も仕事運もまるでなく病は重い、などとはっきり書かれている。正月早々、なんてこと! 木に結び付けて厄払いしたと自分に納得させて帰路についたが、歩き始めて気がついた。おみくじは凶や小吉などは出にくくしてあるに違いない、と。ほとんどが大吉か中吉だということは、それらはきっと一回ふれば出てくるようになっているのだろう。おみくじだって人間が作ったものなのだから……と、さらに納得して、おみくじのことは忘れることにした。
 片山廣子はいわゆる馬込文士村の作家で歌人でもある。松村みね子というペンネームでアイルランド文学を中心に翻訳家としても活躍した。芥川龍之介の最後の心の恋人だったといわれ、堀辰夫の小説のモデルにもなった美しい貴婦人である。外交官の娘であり夫は日銀理事、優秀な息子と美しい娘、でも戦争ですべてを失い、晩年は孤独だった。以前、連載していたエッセイのために、著書をほとんど読み経歴なども調べたが(2012年に出版された全歌集も読んだ)、とても魅力的な素晴らしい人で、いつかもっと詳しく書きたいと思いながら……怠けている。

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2011年8月14日 (日)

『蜜のあわれ』室生犀星

 1959年に書かれたこの小説は、すべてが老人(作家のおじさま)と金魚の会話だけで成り立っている、なんというか…シュールな小説。泡をぶくぶく吐きながらおしゃべりしているような会話、金魚は若い女の人に化けて銀座に出かけたり、おじさまにお金やバッグをねだったり、そしてついには卵を産んでおじさまの子供として育てるといったりする。ほかにも、老人の昔の愛人(おばさま)が出てきて、それが幽霊だったり…。
 犀星はさかなが大好きで、魚眠洞という号を持っていた。馬込文士村の住人で、今でも臼田坂上のお豆腐屋さんにいくと、犀星に頼まれて作ったというあお豆が入ったがんもどきを売っている。子どもたちが通っていた馬込第3小学校の校歌は室生犀星の作詞で、名校歌として知られている。一節に「そのかみの貝塚よ そのかみはわたつみ、いにしえは魚あつまり、魚も歌いけん」とあり、「魚」は「いお」と読ませる。校庭には『蜜のあわれ』にも登場する犀星の書斎が移築されている。
  …書斎の軒のあたりを、金魚が泳いで(というか飛んで)いたりしたのかなぁ…

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2010年4月12日 (月)

馬込文士村

大田区郷土の会の4月の催しは馬込文士村散策だった。
大森駅前の天祖神社に集合したのち、まずは開館して間もない「尾崎士郎記念館」へ。庭に大きな樫の木がある。相撲好きだった尾崎が「鉄砲」と呼ばれる稽古をした古木だ。尾崎士郎といえば作品なら『人生劇場』、私生活では宇野千代との結婚生活が一般的に有名だろう。馬込には長い間にたくさんの文学者が住んだ。多くは戦争などの影響もあり馬込から去っていったが、尾崎士郎は亡くなるまで馬込に住み続けた。
山王草堂は徳富蘇峰が20年近く暮らした所だ。蘇峰は100巻にわたる『近世日本国民史』を著した評論家として有名だが、政治家でもありジャーナリストでもあった。勝海舟との交際も知られている。小説家の徳冨蘆花の兄。
山王草堂を出て、山王で暮らした文学者の足跡をたどって弁天池まで歩く。
私は1980年代の後半から文士村研究会に所属して、講演を聞いたりまだかろうじて残っていた文学者の住んだ家などを見学したりした。北原白秋の家は高台にあるクリーム色の洋館でとても雰囲気のある建物だったし、倉田百三の家の床は凝ったモザイクで埋められ、石のエンタシスの柱が並んだ庭は美しい野菊が咲き乱れていた。研究会はとっくになくなり、今は馬込文士村ガイドの会がある。
それにしても本当に何も残っていない。本当に何もない。文学者が住んだ場所を示した看板さえもかなり傷んでしまった。何だかとても寂しい気がする。

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2010年2月13日 (土)

ちょっと怖い不思議な話・吉屋信子

吉屋信子のちょっと怖い不思議な短編小説を集めた『生霊』。吉屋信子といえば少女小説作家の印象だが、それだけではない。この短編集は私の愛読書の一冊だ。戦争で死んだ人間になり代わって空き別荘に逗留した男『生霊・いきたま』。これも戦争で死んだと思われていた兵士が生きて帰り、自分のものを乗っ取ろうとしていた従兄弟にあだ討ちをする『生死』、ひと間違いをされて優遇されることに喜びを見出していた女性におとづれる悲劇『誰かが私に似ている』。『憑かれる』は子どもの時に毒うつぼを食べさせて幼い友人を殺してしまった男の最後を描いたもの。ある旅館で一緒になった女盗賊の語る『かくれんぼ』、そして『夏鶯』も『冬雁』も「消えてしまった」という謎めいた終わり方。『冬雁』は主人公の美しい女が紀伊の巡礼に出たきり帰らないというところで終わっている。とても文章が綺麗で話の筋も整っていて素晴らしい。吉屋信子の文学的評価が高くないのは、女性によく読まれ人気があったからなのかもしれない。(どこの国でもそうだが日本も長い間「男尊女卑」だった…)。反対に鴎外のように知識階級の男性に好まれるものは文学的評価が高いのかもしれない。でも、文学的にというか芸術的に優れているのは本当のところどちらなのだろう。
本の最後に数編のエッセイが収められている。そのなかの『霊魂』。「竹久夢二の遺作展を百貨店の会場に見た日は春雨のけむるような日だった。同じその日、晩年忘れ去られていた作家岡田三郎氏のさびしい告別式があった。春の雨もここには冷たく侘しく、氏がかつて巴里から帰国後、コントの創作形式を唱えた新進作家としての昔を思うとお気の毒な気がして堪えられなかった。その足で夢二の遺作展会場へ行くと、ぎっしりと参観者で埋まっていて、此の頃の若い世代の人も多く、会場は絵と人いきれで春あたたかだった」それから霊魂の話となり「岡田三郎氏の霊はいずこを寂しく放浪するのか」と結んでいる。因みに祖父と岡田三郎は親しい友人だった。岡田三郎はとてもハンサムでそれだからというわけでもないだろうが、けっこう破滅型の人生をおくった作家だ。

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2010年1月28日 (木)

東京キッド

朝、ラジオを聞いていたら『東京キッド』が流れてきた。美空ひばりの歌で有名だが別の歌手が歌っていた。
「歌も楽しや東京キッド いきでおしゃれでほがらかで 右のポッケにゃ夢がある 左のポッケにゃチュウインガム 空を見あげりゃビルの屋根 もぐりたくなりゃマンホール…」 、2番の歌詞も最後は「…もぐりたくなりゃマンホール」だ。作詞は藤浦洸(余談だが、藤浦洸も馬込文士村の住人だった) 。
私の子供のころ流行した歌だが、今も頻繁に歌われている。私は長い間、東京キッドはマンホールで遊んでいるのだと思っていた。「マンホール」の意味を理解したのは、かなり大人になってからだ。身寄りのない子供たちが雨風や寒さを避けてマンホールで寝泊まりしていたという事実。それはヴィクトリア時代のマンチェスターやリバプール、ロンドンにもいたし、チャウシェスク時代のルーマニアにもいた。世界のいたるところ、戦火のなかにいる子どもたちは今もマンホールに寝泊まりしているかもしれない。日本の親は「マンホール」の意味を子供たちに伝えているだろうか…。

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