イギリス以外の海外文学

2015年6月11日 (木)

『ヴェニスに死す』トーマス・マン

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ヴェニス

 

トーマス・マンの『魔の山』を読んだ。「魔の山」とはスイスの山中にある結核療養所のことだが、若い頃この小説を読んだ時にはわからなかったものが見えたような気がした。

ドイツ小説はイギリス小説ほど読んではいないが、トーマス・マンは好きな作家だ。特に『ヴェニスに死す』は何回も繰り返し読んだせいか印象深い。

初老の作家、アッシェンバッハは散歩の途中で見かけた男に誘発されて旅に出る。ヴェニスへとやってきたアッシェンバッハは、そこでギリシャ彫刻のように美しい、まだ10代前半と思われる少年タッジオに出会い、心を奪われてしまう。タッジオ一家はポーランド人貴族。アッシェンバッハは著名な作家であるにも関わらず、ひと目かまわずタッジオのあとを追うようになる。やがてヴェニスにコレラが発生して蔓延するが、少年のそばを離れたくないがために危険を承知でヴェニスに留まり、ついにコレラに感染し、少年一家がヴェニスを去る日に命をおとしてしまうのだ。

冒頭に、自らの死を予言するかのように「一種異様に黒い、このふしぎな乗り物……波のささやく夜の、音もない、犯罪的な冒険を思わせる……それ以上に死そのもの、棺と陰惨な葬式と最後の無言の車行……」と黒いゴンドラの印象を綴っている。

あの当時のヨーロッパの芸術家は何が何でも「ギリシャ」である。反キリスト教的な自由に対する強い願望、現実的な愛と美こそが芸術の基本だった。小説のなかにも「ソクラテスはファイドロスに憧れと美徳について教えていた。美は愛に値すると同時に目に見えるもの……美は、感覚的にうけ取ることができる精神的なものの唯一の形態……」などとある。

主人公のモデルは作曲家マーラーだ。

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2012年8月16日 (木)

『太平洋の防波堤』マルグリット・デュラス

 去年の夏はサラ・ウオーターズを読んだ。『半身』を読み、『いばらの城』上・下を読み、『夜愁』上・下、『エアーズ家の没落』上・下を読んだ。去年は春に大震災と原発事故があり、夏の初め、尊敬していた義父が亡くなった。昼間は座る時間もないほど忙しく夜は眠れないという辛い夏だった。
 今年の夏はマルグリット・デュラスを読んでいる。机の上にM・デュラスの本が6冊積んである。なかでも素晴らしいのは『太平洋の防波堤』。仏領インドシナ(舞台は南ベトナム)の植民地行政官の不正、その犠牲になって貯金を巻き上げられ、不毛の土地を与えられたフランス人母子家庭。一家は経済的に困窮し、母は次第に精神を病んでいく…。
 後期の作品、ベストセラーになった『愛人』や続編の『北の愛人』を読むと、また違った作家の側面が見えてくる。15歳にも満たないフランス人の少女「わたし」は、大金持ちの美男で婚約者のいる27歳の中国人の「愛人」を持っている…彼は棺のような黒いリムジンに乗って「わたし」を迎えにくる…。双方とも愛と死を同じ次元で綴った美しい文学作品だ。

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2011年6月10日 (金)

『みれん』『ギリシャの踊女』シュニッツレル

シュニッツレルの『みれん』を読む。訳者は森鴎外。ネットで古い文庫本を買った。シュニッツレルという作家を今は殆どの人が知らないだろう。1862年オーストリアのウィーンで生まれ1931年ウィーンで没した。戯曲や小説を書いたユダヤ系の文豪だ。1894年に発表された『みれん』の原題は『死』、日本では1912年(明治45年)1月から鴎外の訳で新聞に連載された。
結核で余命一年と宣告されたフェリックスは転地療養を重ねながら恋人マリィと暮らしている。死を宣告された青年の孤独と心の葛藤、そして愛する人の側にいて共に死のうと決心しながら生への執着を断ち切れず、最後は恋人の殺意に慄きながら最期を看取る若い女性の心情を描いた心理小説だ。
大槻憲二も1924年(大正13年)に新潮社からシュニッツレル『ギリシャの踊女・他2篇』を翻訳出版している。『ギリシャの踊女』は、「死と芸術」を対比させて描いた中編小説。死と芸術とどちらが重いか、大槻は序文に菊地寛の『藤十郎の恋』を引き合いに出しているが、私はちょっとトーマス・マンの『ベニスに死す』を思い出した。
シュニッツレルは医師であり精神分析学者でもあった。催眠術にもすぐれた技能を持っていたという。小説中にも、精神分析という言葉や、夢の話(病気の人が夢のなかで良い薬を教えられ、それを飲んで助かる、というもの)も登場する。「生と死」を描く心理作家として日本でも明治から大正、昭和の初めにかけてよく読まれていた。


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2011年2月15日 (火)

『風車小屋だより』ドーデ


 
 今朝は東京も雪景色だ。咲き始めた紅梅の上に雪が積もった。

 このところ、私のなかではすっかりフランス文学のリバイバルだ。
 バルザックの小説をいくつか読んだら、ドーデの『風車小屋だより』を読みたくなった。
 25年前にプロバンスに行った。どうしてもドーデゆかりの風車が見たくてアルル郊外へ車を走らせた。当時はスペインに住んでいて風車は見なれていたのだが、ドーデの風車はスペインのそれとは趣を異にしていた。スペイン(ラ・マンチャ地方)の風車は漆喰が塗られて真っ白だが、ドーデの風車はむき出しの石のままで赤い三角屋根の上に風見鶏が回っていた。なかは見学できるようになっていたが、観光客が書いた壁のいたずら書きがひどかった。でも、小さな石の窓から見下ろすプロバンスの風景は、真夏の陽光に煌めいて何ともいえず美しかった。
 私は小学生の頃、少年少女世界文学全集にあった『風車小屋だより』を読み、特に『スガンさんのやぎ』をよく覚えていた。高校生になって文庫本で読んだ。作中にある小品『アルルの女』は有名だが、ドーデが戯曲に書き直しビゼーが曲をつけたもの。
 久しぶりに熟読した『風車小屋だより』は子供の頃とも若い頃とも違う印象だった。私も年を取ったらしく、なおさら身にしみていいなぁと思い、本当に作者の気持ちがよくわかった…のだった。

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2011年2月 8日 (火)

『ゴリオ爺さん』バルザック

 書棚の奥に埋もれていた古い文庫本『ゴリオ爺さん』を読み始めたらやめられなくなってしまった。バルザックの『ゴリオ爺さん』はシェークスピアの『リア王』のように可愛がり過ぎた娘たちに裏切られ、失意のうちに死んで行く物語だ。ただしリア王には娘が3人いたがゴリオには2人、リア王の心優しい末娘コーディリアにあたる娘は描かれていない。『ゴリオ爺さん』には、ゴリオの妹娘と恋仲になる貧乏貴族の末裔ラスティニャックや、男性にしか興味がない頭脳明晰な犯罪者ヴォートランなども登場する。華やかだが虚飾に満ちたパリの社交界と、場末の下宿屋に住む個性的な下宿人とのつながりを描いた名作だ。
 バルザックはこれをサッシュ城で執筆した。トゥール近郊のサッシュ城は2004年5月、トゥールに住んでいる幼馴染みのK子さんが案内してくれた。サッシュ城は16世紀の建物、19世紀にバルザックが住んだことで有名だ。バルザックはサッシュ城で『ゴリオ爺さん』『絶対の研究』そして『谷間の百合』の一部を書いた。バルザックが執筆した部屋を訪れたとき、見学者は誰もいなかった。窓の外には満開の薔薇園の向こうに横たわる静かな森が、その先に麦畑に覆われた青い岡が見えた。室内は窓ガラスに這う小さな虫の羽音が微かに響いていた。
 『谷間の百合』の舞台となったサッシュとポンド・リュアンのあいだを流れるアンドル川の谷間には、今も昔と同じ水車小屋が残っている。川はいくつもの小島を浮かべ、揺らめく陽光のなかをゆったりと流れる。人々は島々をつなぐ小さな橋を渡りながら、物語の世界へと入って行く。
 そういえばサッシュ城にはブロンズで作られたバルザックの右手が置いてあった。「彼は自分の手を自慢にしていた。彼の手は白くてすべすべしていて爪はピンク色、手を褒められるのが大好きだった」と説明板にあった。

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2010年6月22日 (火)

『螺旋』サンティアゴ・バハレス

 『螺旋』(本題はEl Paso de la Helice) を読んだ。作者のサンティアゴ・パハレスはスペインのベストセラー作家。まだ30歳を過ぎたばかりの若さだ。『螺旋』は一作目の長編小説。幻の作家トマス・マウドを探してピレネー山中の小さな村を訪ねた編集者ダビッド。たったひとつの手掛かりはトマス・マウドの右手の指が6本あるということだったが…。麻薬中毒の若い男女や出版社の秘書と家族、それからたくさんの個性的な村人たちが登場するミステリーのようなファンタジーのような小説。なぜ、この小説を知ったのかといえば、
Mi marido conocia su padre Luis Pajares porque ellos trabajaban en la misma compania en Madrid.
というわけで、作家の父であるルイス・パハレス氏が夫の会社の同僚だったからだ。
 翻訳は…日本語は難しい、丁寧語や尊敬語の使い方ひとつで切れ味の悪い日本語になってしまう。原文を読んでいないからわからないが、tuとustedを日本語で使い分けるのが難しいのかもしれない。

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2010年6月 4日 (金)

『アッシャー家の崩壊』エドガー・アラン・ポー

『黄金虫』を久しぶりに読んだら『アッシャー家の崩壊』が読みたくなった。一昨日は家じゅうの本棚を上から下から奥まで探したのに見つからなかった。誰かに貸したままなのか…誰に貸したかも覚えていない。古本屋に行くのももどかしい、早く読みたいという思いが募る。
時おり、私をこういう気持ちにさせるのはすでにこの世にいない作家の作品ばかりだ。現在活躍している作家の作品にも良いと思うものもあるけれど、一刻も早く読みたいという気持ちにはなれない。どうしてだろうと考えてみる、そう、死んだ人間には完結した人生があるからだ。しかも作家自身の人生が多くの作品をさしおいて一番劇的だったりするから魅力的なのだ。異なる時代に異なる経験を重ねて生きそして死んだ過去の作家たち…。こうしてみると、芸術作品は、結局本人が死んだ後に評価されるものなのかもしれないなどと思う。

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2010年6月 2日 (水)

『黄金虫』エドガー・アランポー

 少し前に衝動買いしたエドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人・黄金虫』は、古本を愛する私にしては珍しく「新品」だ。去年発売されたばかりの新潮の文庫本だが、ポーの短編は子供のころから何度も読み、家には何冊も同じ本があるのにまたもや買ってしまった、というより買う気にさせられてしまった。
 『黄金虫』は大好きな冒険小説だ。舞台は北アメリカ、チャールストン近くにある丘陵地帯。ある日、ひとりの男性が黄金虫を捕獲する。彼は様々な経緯から羊皮紙に書かれた暗号を読み説き、友人と使用人を伴ってついに目的の場所に行きついて、地下に埋められた海賊の宝を発見するのだが、『宝島』などと違ってちょっと不気味で大人向きだ。
 この物語に登場する黄金虫はオオタマオシコガネ。ファーブル昆虫記で有名なフンコロガシ、またの名をスカラベ。太陽神を祀った古代エジプト人が神の使いと信じた虫だ。動物の糞を切り取り後ろ足で上手に丸めてころがす。コガネムシの一種なのでピカピカ光っている。
 ポーは北アメリカのボストンで生まれ、旅役者の両親とは幼いころに死別した。27歳のとき13歳の少女と結婚。酒と麻薬に溺れ、40年の生涯を締めくくるその死も謎に包まれている。最後の詩『アナベル・リー』は少女への愛の歌だ。


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2010年1月25日 (月)

『戦場の画家』ペレス・レベルテ

小説『戦場の画家』を読んだ。だいぶ前に頂いた本だが、読み進むのが辛くて随分時間がかかってしまった。刺激が強すぎて一日にひとつの章しか読むことができなかった。眩しくて息苦しくて眼を開けていられないような気分になる。それでもしっとりとした非常に繊細な感性を思わせる作品で、読み終わって少し涙が湧いた。生存する作家の作品に感動したのはカズオ・イシグロ以来かもしれない。アルトゥーロ・ペレス・レベルテ、スペイン人作家だ。
主人公は数多くの戦場を巡ってきた元カメラマンフォルケスとフォルケスの写した一枚の写真からクロアチア人だということが知れて妻子を殺されてしまったマルコヴィチ。岬の果てに建つ古い石造りの望楼に住み(ダブリン郊外にあるジェイムズ・ジョイスゆかりの望楼を連想してしまったが)、 内部の壁に人生の集大成として戦争の絵を描いているフォルケスのもとにマルコヴィチが復讐のためにやってくる。ほんの6日間のふたりの出会いと対話のなかに、凄まじい量の過去の出来事が語られる。フォルケスが愛したオルビド(忘却)という名の恋人の死も…。木村裕美の和訳も読みやすく綺麗な日本語だ。

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2009年4月14日 (火)

ニーチェ

ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』(昔は「かく語りき」だったが)、第一部を読む。

ツァラトゥストラは30歳で人里はなれた洞窟に籠もり思索にふける。10年後ついに悟りをひらいて村里に下りていく。「神は死んだ」からはじまり、「人は超人となれ」と説く。超人とは…「人間は克服されなければならない或る物」であり、「移りゆき没落するもの」だという。(ようするに、単に天(神)のもとへ近付こうとする愚かさ、単純さを見つめなおし、己の内面を見よということだろうか…違うかもしれない…)自然主義的で、キリスト教社会においては画期的な思想なのだろう。けれど今まで何回となく読み始めて、ここでやめてしまったという箇所がある。

それは「老いた女と若い女」という章だ。女は男のなかに少年を見つけそれを愛せよという。それならば、男は女のなかに母を見つけそれをあがめよというのかと思ったら「女は男の清らかな玩具であれ」なんていってしまう。この章にはいろいろと男と女のことがかいてあるのだが、どう贔屓目に読んでも「男尊女卑」だ。

ニーチェは野蛮人なのか、と馬鹿馬鹿しくなってやめていたのだが、今回は第一章の最後まで読み、「子どもと結婚」の章で一瞬、ニーチェをちょっと見直した。子どもは「単に産み増やすのではなく産み高めていかなくてはならない」結婚は「創造者よりもさらにまさるひとつのものを創造しようとするふたりがかりの意志」だといっている。

でも待てよ、創造者自体が男性に限られているのだから、だいたいこの書物は女には説教していないのだから、根本的に男尊女卑(女は人間じゃない)じゃないのかしら。やっぱりどこかすっきりしない。

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