イギリス以外の海外文学

2018年4月 2日 (月)

オクターブ・ミルボー

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小説家オクターブ・ミルボーはクロード・モネの親友だった。そこで、ちょっと読んでみようという気になり、フランスの短編集のなかにあった『呪われた制服』を読んだ。ある貴族の御者の話だ。正直な若者が、代々受け継がれた古風な御者の制服を身に着けたとたん、過去の邪悪な御者たちと同じように堕落しはじめ、最後は雇い主の貴族を殺してしまう。なかなか象徴的である。さらにもう少し読んでみようと、かの有名な『責苦の庭』(1899年)を読んだ。ミルボーは「この殺戮と流血の文章を、宗教者と兵士と裁判官に捧げる。人間を訓育し、指揮し、統御しようとするものたちに」と書いている通り、反戦論者なのだ。しかし読み始めたはいいが、底知れない気味の悪さに途中から気分が悪くなってしまった。桜の花が散り始めた美しい春の午後、窓辺に座って『責苦の庭』を読むなどというのは……じつにアンバランスで酔狂としか言いようがない。あの時代のフランスで流行した一種の怪奇小説なのかもしれないが…。クララという残虐で卑猥な女が出てきて、中国の架空の町にある処刑場(そこでは無実の人が、筆舌に尽くしがたい残酷な拷問を受ける)の美しい庭園に案内する。庭園の花は処刑されたものの血と肉を栄養にして咲き誇る。その庭の描写がモネのジヴェルニーの睡蓮の庭園にそっくりだというのだ。『責苦の庭』は、澁澤龍彦が初訳しているらしいが、さもありなんである。

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2018年3月24日 (土)

W・デ・モラエス(2)

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潮音寺のモラエスとヨネ、コハルの墓

 

モラエスは1854年にポルトガルのリスボンで生まれた。父は高級官吏、母は軍人の娘で、モラエスは海軍学校を卒業して海軍士官となる。マカオ在住中にデンマーク人の父と中国人の母をもつ亜珍と同棲して2人の息子を得る。軍人ながら学者、文筆家としても力を発揮。軍人から役人に転身して日本に移住し、後にポルトガル領事館の初代領事となった。モラエスはキリスト教徒(カトリック)ではなかった。宗教に対する意識は非常に覚めていて、それだからこそ、いわゆる日本の「異国情緒」に惹かれたのだろう。「不思議なことに…日本人は神道信者として生まれ、仏教信者として死ぬ…」とある。客観的にみれば、まったくその通りだ。
モラエスがはじめて日本に来たのは1889年、35歳の時だった。長崎港に船が近づいていくと、山を覆う木々の緑の深さに目を見張る。これはよく理解できる。日本で暮らしていると当たり前の風景だが、日本の緑は熱帯の緑とも違う趣がある。スペインから6年ぶりに帰国した際、日本の緑は何て美しいのだろうと感動すると同時に、心に重く傾れかかり鬱陶しいほどだと感じたことを思い出した。
モラエスの著書を読むと、非常にラテン的なウエットな人だと感じる。ラテン系の人々はドライで現実的だと思われがちだが、実はものすごくウエットで傷つきやすい。モラエスはヨネに対してもコハルに対しても、心から「追慕」する。『おヨネとコハル』に、コハルの死を、優しさと哀れみをもって書き記している。「忘却も追慕の苦しみに対する良薬とはならない。ただ1枚のベールのように隠すだけ。微風が吹けば波打ち、遠い過去をあらわにしてみせる…」.さらに、日本人の死に対する意識を神秘的だと捉える。たとえば切腹という自殺、心中という自殺、そして一番怖いのは、意地悪な姑にあてつけるために子どもを道連れにして死んで見せること、それは理解できずただただ恐ろしい、と。

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2018年3月21日 (水)

W・デ・モラエス(1)

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写真は「和田の屋」

 

若い頃、賑やかな阿波踊りの雑踏のなかに佇む、背の高い孤独なポルトガル人の姿を思い描いては、哀感をそそられたものだ。いつかモラエスが暮らした徳島に行きたいと思いながら、長い間機会に恵まれなかった。でもついに行ってきた!モラエスはポルトガルでも著名な文筆家だ。図書館で、モラエスの著作を3、4冊、瀬戸内寂聴の戯曲『モラエス恋遍路』、そしてモラエスを主人公にした新田次郎の未完の小説『孤愁』を借りて読んだ。これは最後の部分を藤原正彦が父親のあとを書き継いで完成させている。
朝、羽田を発って、徳島阿波踊り空港(今や空港までキラキラネーム)に着いたのは10時15分。まずは「徳島県立文学書道館」へ。モラエスの資料は思ったよりも少なかったが、瀬戸内寂聴はじめ徳島に関係のある作家と書家の資料が並んでいた。そこからモラエスとヨネゆかりの春日神社の焼餅屋「和田の屋」(当時は「米善」という名の茶店)に行き、菊型が焼きつけられたあんこ入りの餅を食す。店の人は、今年は雪がひどくて黄色い5弁の花をつける黄花亜麻がだめになりました、といっていた。滝も水が枯れている。モラエスとヨネがここで再会したというブラジル領事館員コートの証言があるらしいが……ともかく1900年、当時神戸のポルトガル領事館に勤務していたモラエスはヨネと結婚し、領事館に近い山手通りで暮らし始めた。1912年にヨネが他界したあと、モラエスはヨネの郷里徳島へ移り住み、ヨネの姪コハルと同棲する。けれどもコハルもまた1916年にヨネと同じ結核に侵され、23歳の若さで他界した。モラエスはふたりの墓を守りながら徳島で暮らし、75年の生涯を終えた。「和田の屋」から歩いて10分ほどの「潮音寺」境内に、コハル、モラエス、ヨネと3つの墓が並んでいる。しかし寺は趣もなく、区画整理されて墓石もまばらだ。モラエスが歩いた道や住んでいたあたりを巡って、ロープウエイで眉山に上り徳島の町を見下ろす。何といっても雄大な吉野川が美しい。

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2018年2月 4日 (日)

『ダフニスとクロエ』・ロンゴス

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パリ・オペラ座の天井画・シャガール画

 

『ダフニスとクロエ』を読んだ。ルーブルの美しい彫刻やラヴェルのバレエ音楽、そして三島由紀夫の『潮騒』や北杜夫の『神々の消えた土地』は、この物語を念頭に置いて創作されたものだということは知っていたが、『ダフニスとクロエ』そのものがどういう物語なのかは知らなかった。今回、ある方からシャガールのリトグラフ『ダフニスとクロエ』42枚を紹介され、読まなければ!という気持ちになった。舞台はエーゲ海のレスボス島。親に捨てられ山羊に育てられたダフニスと、同じ境遇で羊に育てられたクロエの恋物語だ。ふたりは、恋敵に邪魔されたり、海賊に襲われたり、戦争に巻き込まれたりとさまざまな困難に出会う。けれどもついに、ダフニスはミュティレーネーの大富豪ディオニューソファネースの息子で、クロエもまた富豪メガクレースの娘とわかり大団円となる。これはギリシャ語の小説で作者はロンゴス。3世紀ごろに書かれたという。
昨日の朝、『ダフニスとクロエ』のことを教えて下さった方から小さな荷物が届いた。なかには1冊の本、英語版『シャガール・色彩と音楽』が入っていた。彼女は私が尊敬する先輩のひとりで、シャガールを愛するとてもエレガントな女性だ。高校も大学も同窓で、ロンドンにも長い間住んでいらした、私の先を行く方である。

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2015年6月11日 (木)

『ヴェニスに死す』トーマス・マン

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ヴェニス

 

トーマス・マンの『魔の山』を読んだ。「魔の山」とはスイスの山中にある結核療養所のことだが、若い頃この小説を読んだ時にはわからなかったものが見えたような気がした。

ドイツ小説はイギリス小説ほど読んではいないが、トーマス・マンは好きな作家だ。特に『ヴェニスに死す』は何回も繰り返し読んだせいか印象深い。

初老の作家、アッシェンバッハは散歩の途中で見かけた男に誘発されて旅に出る。ヴェニスへとやってきたアッシェンバッハは、そこでギリシャ彫刻のように美しい、まだ10代前半と思われる少年タッジオに出会い、心を奪われてしまう。タッジオ一家はポーランド人貴族。アッシェンバッハは著名な作家であるにも関わらず、ひと目かまわずタッジオのあとを追うようになる。やがてヴェニスにコレラが発生して蔓延するが、少年のそばを離れたくないがために危険を承知でヴェニスに留まり、ついにコレラに感染し、少年一家がヴェニスを去る日に命をおとしてしまうのだ。

冒頭に、自らの死を予言するかのように「一種異様に黒い、このふしぎな乗り物……波のささやく夜の、音もない、犯罪的な冒険を思わせる……それ以上に死そのもの、棺と陰惨な葬式と最後の無言の車行……」と黒いゴンドラの印象を綴っている。

あの当時のヨーロッパの芸術家は何が何でも「ギリシャ」である。反キリスト教的な自由に対する強い願望、現実的な愛と美こそが芸術の基本だった。小説のなかにも「ソクラテスはファイドロスに憧れと美徳について教えていた。美は愛に値すると同時に目に見えるもの……美は、感覚的にうけ取ることができる精神的なものの唯一の形態……」などとある。

主人公のモデルは作曲家マーラーだ。

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2012年8月16日 (木)

『太平洋の防波堤』マルグリット・デュラス

 去年の夏はサラ・ウオーターズを読んだ。『半身』を読み、『いばらの城』上・下を読み、『夜愁』上・下、『エアーズ家の没落』上・下を読んだ。去年は春に大震災と原発事故があり、夏の初め、尊敬していた義父が亡くなった。昼間は座る時間もないほど忙しく夜は眠れないという辛い夏だった。
 今年の夏はマルグリット・デュラスを読んでいる。机の上にM・デュラスの本が6冊積んである。なかでも素晴らしいのは『太平洋の防波堤』。仏領インドシナ(舞台は南ベトナム)の植民地行政官の不正、その犠牲になって貯金を巻き上げられ、不毛の土地を与えられたフランス人母子家庭。一家は経済的に困窮し、母は次第に精神を病んでいく…。
 後期の作品、ベストセラーになった『愛人』や続編の『北の愛人』を読むと、また違った作家の側面が見えてくる。15歳にも満たないフランス人の少女「わたし」は、大金持ちの美男で婚約者のいる27歳の中国人の「愛人」を持っている…彼は棺のような黒いリムジンに乗って「わたし」を迎えにくる…。双方とも愛と死を同じ次元で綴った美しい文学作品だ。

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2011年6月10日 (金)

『みれん』『ギリシャの踊女』シュニッツレル

シュニッツレルの『みれん』を読む。訳者は森鴎外。ネットで古い文庫本を買った。シュニッツレルという作家を今は殆どの人が知らないだろう。1862年オーストリアのウィーンで生まれ1931年ウィーンで没した。戯曲や小説を書いたユダヤ系の文豪だ。1894年に発表された『みれん』の原題は『死』、日本では1912年(明治45年)1月から鴎外の訳で新聞に連載された。
結核で余命一年と宣告されたフェリックスは転地療養を重ねながら恋人マリィと暮らしている。死を宣告された青年の孤独と心の葛藤、そして愛する人の側にいて共に死のうと決心しながら生への執着を断ち切れず、最後は恋人の殺意に慄きながら最期を看取る若い女性の心情を描いた心理小説だ。
大槻憲二も1924年(大正13年)に新潮社からシュニッツレル『ギリシャの踊女・他2篇』を翻訳出版している。『ギリシャの踊女』は、「死と芸術」を対比させて描いた中編小説。死と芸術とどちらが重いか、大槻は序文に菊地寛の『藤十郎の恋』を引き合いに出しているが、私はちょっとトーマス・マンの『ベニスに死す』を思い出した。
シュニッツレルは医師であり精神分析学者でもあった。催眠術にもすぐれた技能を持っていたという。小説中にも、精神分析という言葉や、夢の話(病気の人が夢のなかで良い薬を教えられ、それを飲んで助かる、というもの)も登場する。「生と死」を描く心理作家として日本でも明治から大正、昭和の初めにかけてよく読まれていた。


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2011年2月15日 (火)

『風車小屋だより』ドーデ


 
 今朝は東京も雪景色だ。咲き始めた紅梅の上に雪が積もった。

 このところ、私のなかではすっかりフランス文学のリバイバルだ。
 バルザックの小説をいくつか読んだら、ドーデの『風車小屋だより』を読みたくなった。
 25年前にプロバンスに行った。どうしてもドーデゆかりの風車が見たくてアルル郊外へ車を走らせた。当時はスペインに住んでいて風車は見なれていたのだが、ドーデの風車はスペインのそれとは趣を異にしていた。スペイン(ラ・マンチャ地方)の風車は漆喰が塗られて真っ白だが、ドーデの風車はむき出しの石のままで赤い三角屋根の上に風見鶏が回っていた。なかは見学できるようになっていたが、観光客が書いた壁のいたずら書きがひどかった。でも、小さな石の窓から見下ろすプロバンスの風景は、真夏の陽光に煌めいて何ともいえず美しかった。
 私は小学生の頃、少年少女世界文学全集にあった『風車小屋だより』を読み、特に『スガンさんのやぎ』をよく覚えていた。高校生になって文庫本で読んだ。作中にある小品『アルルの女』は有名だが、ドーデが戯曲に書き直しビゼーが曲をつけたもの。
 久しぶりに熟読した『風車小屋だより』は子供の頃とも若い頃とも違う印象だった。私も年を取ったらしく、なおさら身にしみていいなぁと思い、本当に作者の気持ちがよくわかった…のだった。

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2011年2月 8日 (火)

『ゴリオ爺さん』バルザック

 書棚の奥に埋もれていた古い文庫本『ゴリオ爺さん』を読み始めたらやめられなくなってしまった。バルザックの『ゴリオ爺さん』はシェークスピアの『リア王』のように可愛がり過ぎた娘たちに裏切られ、失意のうちに死んで行く物語だ。ただしリア王には娘が3人いたがゴリオには2人、リア王の心優しい末娘コーディリアにあたる娘は描かれていない。『ゴリオ爺さん』には、ゴリオの妹娘と恋仲になる貧乏貴族の末裔ラスティニャックや、男性にしか興味がない頭脳明晰な犯罪者ヴォートランなども登場する。華やかだが虚飾に満ちたパリの社交界と、場末の下宿屋に住む個性的な下宿人とのつながりを描いた名作だ。
 バルザックはこれをサッシュ城で執筆した。トゥール近郊のサッシュ城は2004年5月、トゥールに住んでいる幼馴染みのK子さんが案内してくれた。サッシュ城は16世紀の建物、19世紀にバルザックが住んだことで有名だ。バルザックはサッシュ城で『ゴリオ爺さん』『絶対の研究』そして『谷間の百合』の一部を書いた。バルザックが執筆した部屋を訪れたとき、見学者は誰もいなかった。窓の外には満開の薔薇園の向こうに横たわる静かな森が、その先に麦畑に覆われた青い岡が見えた。室内は窓ガラスに這う小さな虫の羽音が微かに響いていた。
 『谷間の百合』の舞台となったサッシュとポンド・リュアンのあいだを流れるアンドル川の谷間には、今も昔と同じ水車小屋が残っている。川はいくつもの小島を浮かべ、揺らめく陽光のなかをゆったりと流れる。人々は島々をつなぐ小さな橋を渡りながら、物語の世界へと入って行く。
 そういえばサッシュ城にはブロンズで作られたバルザックの右手が置いてあった。「彼は自分の手を自慢にしていた。彼の手は白くてすべすべしていて爪はピンク色、手を褒められるのが大好きだった」と説明板にあった。

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2010年6月22日 (火)

『螺旋』サンティアゴ・バハレス

 『螺旋』(本題はEl Paso de la Helice) を読んだ。作者のサンティアゴ・パハレスはスペインのベストセラー作家。まだ30歳を過ぎたばかりの若さだ。『螺旋』は一作目の長編小説。幻の作家トマス・マウドを探してピレネー山中の小さな村を訪ねた編集者ダビッド。たったひとつの手掛かりはトマス・マウドの右手の指が6本あるということだったが…。麻薬中毒の若い男女や出版社の秘書と家族、それからたくさんの個性的な村人たちが登場するミステリーのようなファンタジーのような小説。なぜ、この小説を知ったのかといえば、
Mi marido conocia su padre Luis Pajares porque ellos trabajaban en la misma compania en Madrid.
というわけで、作家の父であるルイス・パハレス氏が夫の会社の同僚だったからだ。
 翻訳は…日本語は難しい、丁寧語や尊敬語の使い方ひとつで切れ味の悪い日本語になってしまう。原文を読んでいないからわからないが、tuとustedを日本語で使い分けるのが難しいのかもしれない。

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