旅行

2016年12月12日 (月)

法師温泉

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法師温泉に行った。法師温泉は昔から知る人ぞ知る古い湯治場だった。その長寿館は川瀬巴水の版画にもなっている。しかしここを決定的に有名にしたのは、1982年の国鉄「フルムーン」のコマーシャルだった。コマーシャルに使われたのは明治時代に造られた湯殿だが、そこは今でも昔ながらの混浴だ。

部屋は明治8年に建てられた本館2階の突き当り。8畳間の周囲は雪見障子で仕切られた廊下がめぐらされ、窓からは別館と法師川が、その奥に冬枯れの山が見えた。

お茶を入れてくれた仲居さんに、この部屋には誰が泊まったのですか、と聞くと「私はアルバイトなので、ちょっと待ってください。聞いてきます」といって出ていった。戻ってくると、ここは川端康成が泊まった部屋だという。そして床の間を指さして、「そこにかかっているのは、川端先生の息子さんの直筆の歌なんです」という。見れば『いにしへに父やどりしをおもひ出で囲炉裏に上座賜ひます宿・旅人』と書かれた軸がかかっている。「旅人……旅人といえば若山旅人、牧水の息子ではないかしら」。すると仲居さん、「いいえ、これはただの旅の人、という意味ですよ」などという。本当にそうかしら、見れば見るほど、牧水そっくりの丸い文字で書かれている。若山牧水も法師温泉に泊まり、帰りに沼田の生方家(生方たつゑの嫁ぎ先)に立ち寄ったことがあるのだ。展示棚には生方家から寄贈された牧水のとっくりなども置いてある。きっと仲居さんが間違えて聞いたのだろう。この本館には、政治家や軍人、小説家や歌人など、本当にたくさんの人々が宿泊した。与謝野晶子などは籠に乗ってやってきたらしい。そんな写真も展示してある。

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2016年10月20日 (木)

余部鉄橋

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写真は保存されている旧余部鉄橋

毎年恒例の、息子の小学校の母親仲間との小旅行にでかけた。今回は、丹後半島と城崎温泉。羽田から伊丹、伊丹から小さな36人乗りのプロペラ機に乗り替えて但馬空港へと向かう。「天空の城」として話題になった竹田城跡、古い城下町の出石、豊岡、そして日本三景の天橋立、船屋の立ち並ぶ伊根、玄武洞などを見て歩いたが、最も印象的だったのは余部(あまるべ)鉄橋だった。明治45年に完成した鉄橋は平成22年にコンクリート橋に架けかえられたが、旧鉄橋も一部保存されている。見上げれば眩暈がしそうなほどの高さ……海に向かって左右の山をまたぐように架けられている。

私は「橋」を見るのが好きで、イギリスでは真っ先にアイアン・ブリッジを見に行ったが、セヴァーン川に架かる鉄橋は想像以上に美しくて素晴らしかった。まさに産業革命の象徴だった。ここはイギリスの鉄橋とは風情が違うが、同じように人々が苦労して造ったのだろうと感動しつつ眺める。この橋で、昭和61年12月28日午後1時25分ごろ、悲惨な事故が起こった。山陰本線の列車7両が強風にあおられて鉄橋の上から落ち、下にあったカニの加工工場を直撃、パートで働いていた主婦5人と車掌が犠牲になった。死者6名重症者6名。運転手は機関車に乗っていたので一命をとりとめた。回送電車(お座敷列車だったとのこと)だったので、車両が軽くて強風に飛ばされてしまったのだろうか。橋の下には白い慰霊塔が立っている。

宿は城崎温泉だった。志賀直哉の随筆(エッセイ)『城の崎にて』は、筆者が山手線にひかれて九死に一生を得たあと、城崎で静養したときに書かれた。蜂の死骸、川に流される傷つけられたねずみ、自分がうっかり殺してしまったイモリのことなど、小さな弱きものの命と死を見つめる随筆は、中学の教科書にも載っていた。

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2015年10月16日 (金)

上高地・河童橋

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雨の河童橋

 

今回の旅行のもうひとつの目的は上高地の「河童橋」。諏訪から松本に向かうあいだに空模様はすっかりあやしくなって、パーキングに着いた頃から雨がぽつぽつ降りだした。車を置いて、タクシーで上高地帝国ホテルに向かう。釜トンネルを抜けると突然、赤い山肌の焼岳が姿をみせ、雨に濡れて静まりかえる大正池が左手に見えてくる。子どもの頃、水中で立ち枯れた白樺の写真を見て神秘的だと感じたものだったが、今はもう、ほとんど木々は腐ってしまったという。

ホテルに着いて部屋に落ち着いたあと、「河童橋」まで歩こうということになった。ホテルで傘と雨合羽を借りて出ていく。木道をわたり、梓川のほとりの道を20分ほど歩くと「河童橋」。「河童橋」は明治43年にはね橋から吊り橋にかけかえられた。現在の橋は5代目だという。

芥川龍之介の小説『河童』はまさしくここが舞台。上高地から穂高に登ろうとした男が、梓川のほとりで霧に迷い河童に出会うところから始まる。自殺の直前にまとめられた最後の小説だ。芥川の憧れの人であった片山廣子も、この小説に限りない愛着があったのだろう、のちに廣子は『カッパのクー』を翻訳している。きっとこの小説をとおして芥川の心を理解したのだと思う。

それにしても雨である。ホテルに戻るころはひどい嵐になった。夜半も、吹き荒れる風雨の音で目が覚め、うとうとするとまた目が覚めるという繰り返しだった。けれども翌朝は、穂高の上の空は雲が切れて、美しい青空がのぞいていた。

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2015年10月 7日 (水)

諏訪の片倉館

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夕暮れの片倉館

 

中央高速から眺める山の姿は素晴らしい。富士山、南アルプス、八ヶ岳、そして遠くに北アルプス……秋の長雨も終わり、良く晴れた日が続くようになった今月初め、23日の小旅行に出た。今回の目的のひとつは、諏訪湖畔の「片倉館」。

午後3時半の館内ツアーに電話予約したとき、集合場所は庭の丸い池のほとりと聞いた。丸池の周囲は青系とピンク系のモザイクタイル、等間隔でエンジェルの像が置かれ、クロッカスをはじめ秋の花々が咲き乱れている。中央に木が植えられていて、水は地下水なのか、ポンプでくみ上げられている。ツアー料金はひとり500円。建物は重要文化財。

「片倉館」はこの地で製糸業を営んでいた片倉兼太郎(2代目)が、昭和3年(1928年)に地元の人々の福祉施設として建設したもの。会館棟と浴場棟のふたつからなり、渡り廊下でつながっている。設計は森山松之助、湖畔の湿地帯なので地盤を固めるために地面に杭をたくさん打ち込んであるという。2棟の外観は洋風建築。会館棟の内部はすべて和風で、大広間や個室などで占められ、浴場棟には通称「千人風呂」といわれる同型の温泉施設、男女ふたつの風呂がある。地下には蒸気風呂があったが、今は使われていない。開業当時は浴場の壁に水槽がありその中に諏訪湖の魚を泳がせていたというが、それも今はない。その当時(新井旅館にもあったように)お風呂に水槽、というのが流行ったのかもしれない。

会館棟の正面には片倉財閥が九段の靖国神社に奉納したという高村光太郎作の一対の狛犬の模型が置かれていた。大広間や個室は今も使われており、お正月や夏休み(花火大会)は人々で賑わうとのこと。会館棟を見てから浴場棟の「千人風呂」へ。ツアーに参加すると200円引きなので300円を払って入る。風呂は洋風でタイルやステンドグラスが施され、湯船の床は黒い小石が敷き詰められていて110センチの深さ、小さな子どもは足が立たない。想像していたよりも広くはなかったが当時としては画期的だったのだろう。ほんのりと硫黄の匂いが立ち込め、真っ赤な西日がゆがんだガラス窓から斜めに差し込んで満たされた湯の表面をたゆたっている。これが「千人風呂」……私は女工さんたちのために作ったのだとばかり思っていたが、地域の人のためだったのだ。かの富岡製糸場も最後まで片倉工業の所有だったはずだ。時がゆっくりと流れ……諏訪湖の対岸に陽が落ちる。

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2013年10月30日 (水)

京都・時代祭り

 ほかの用事で京都に行ったが、たまたま時代祭りの日と重なった。めったにこんなことはないと思って、平安神宮の大きな門の前に立って見物する。
 時代祭りは、葵祭り、祇園祭りと並んで、京の三大祭りのひとつだ。
 最初に明治の志士や鼓笛隊の行列がくる。それから江戸時代、室町時代、鎌倉時代、そして平安時代とだんだん時代をさかのぼっていく。歴史上の有名人物などに仮装して歩いてくる。清少納言と紫式部が通ったので、それを見て引き上げる。2時半前から見はじめて、1時間半近く眺めていた。

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2011年10月27日 (木)

広隆寺の弥勒菩薩像

 先日、京都でちょっと時間がとれたので、ひとりで広隆寺へ行った。どうしても弥勒菩薩像を見たくなったからだ。若い頃は何回も通ったが、その後は京都に行く機会も少なくなり今回は35年ぶり。京都駅前から出ているバスに乗り、広隆寺前で降りる。風神雷神の像が左右に鎮座する南大門を入り、静かな境内を歩いて行く。奥にある宝物館のまわりにも数人の観光客が見えるだけ、紅葉前なので訪れる人は少ないのだろう。
 弥勒菩薩半跏思惟像を見た。今から50年ほど前、若い学生が菩薩像があまりに美しいので抱きついてしまい右手の薬指を折ってしまった、という伝説のような本当の話(本当はやっぱりちょっと違うらしい)があり、それがスキャンダラスでありながらロマンがあったので、なおさら印象が深かった。
 暗い照明に浮かび上がる像の両脇に、白百合が一本づつ挿され微かな芳香を放っている。右手を顔近くにあげ、右足を左足の上に組み、左手をその上に置いている、赤松で造られた飛鳥時代の像だ。静かで孤独な憂い顔…いったい何を考えているのか、世の中や人々のために何をしたらいいのか考えている、ということだが、自分の内に閉じこもって色々と思索に耽っているのだから、まだ人々の悩みや話を聞く、という段階ではないのか。大きな顔に大きな耳、そして細い胴に小さな手、薄い衣の襞が大きく波打ち、台座の上から垂れている。それにしても美しい。そう、何といっても唇が美しい。笑っているような、泣いているような、それでいて意思の強い「ものを言う唇」なのだ。これはただ形だけの美しさではない。信仰の対象だったから、精神性が高いから美しいというものでもない。何だろう、この美しさは…。


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2011年10月12日 (水)

神島・『潮騒』と「アサギマダラ」の島

神島
 写真は「アサギマダラ」

 ずっと行きたいと思っていた神島に行ってきた。神島は伊勢湾の入り口に位置する小さな島、三島由紀夫の小説『潮騒』の舞台であるとともに、日本でただひとつの種といわれる渡りをする蝶「アサギマダラ」が集まり、一斉に飛び立つところだ。
 当日はこれ以上の天気はないと思われるほどの快晴。鳥羽から船で40分、船着き場からボランティアの方に案内されて歩き始める。島を一周するには普通の足で約2時間ほど。
 ここは偶然『潮騒』の舞台になったのではなく、ギリシャ神話の『ダフニスとクロエ』を和風に書きたいと願っていた三島がモデルになる島を探していた、といった方が正しいようだ。船着き場から石段を上がる途中に三島が滞在したという家が残っている。赤い瓦屋根の向こうに青い海が見える。この家の二階で三島は小説の断片を書いたのだろう。
 さらに20分近く山道を上ると木立のなかに急な石段が見えてくる。214段を上りきると八代神社の境内。青空に舞うとんびの影が素早く横切る。見上げれば目が痛いほどの眩しさだ。この神社には太陽神を奉る「ゲーター」と呼ばれる祭りがある。元旦の夜明け前、グミの木で作った丸い輪を日輪にみたてメダケで刺し上げてから落とすというもの。浜で落とされた日輪は若い男衆に担がれて214段をかけ上り神社に奉納されるという。
 神社から灯台へ向かう道はかなりきつい上り坂だが、木々の間から見る海の群青が美しい。この道は小説にしばしば登場する。互いに惹かれあう新治と初江の姿が見えるようだ。灯台のある岬の上から伊良子水道が眼下に広がる。左手が伊勢湾、右手が太平洋。
 灯台をすぎるとまた険しい上り坂になった。そしてついに待っていた「アサギマダラ」が現れた。野アザミの花に数匹の蝶がとまっては離れ、飛んではまたとまる。これを何と表現したらいいのか……暮色のなかの燃える太陽、昼の碧空、それらすべての宇宙…両の羽に風が起こり、揺れながら誘いながら魅惑的に優しくそして孤独に舞い続ける。空があまりに美しく明るいのでなおさらに薄暗く見える森のなかで、彷徨い戸惑う少女みたいに、ゆらゆらと……。手を差し伸べればとまりそうなほど優雅だ。北米の渡り蝶「オオカバマダラ」はとても有名だが、「アサギマダラ」はそれよりもっと複雑な色の羽を持ち、東北地方から台湾まで2,000㎞以上の海を渡って行くという。
 蝶と離れて『潮騒』のクライマックスの場面、監的哨へ。ここは戦争中試射弾を監察した場所で、今はコンクリートの残骸。そこからニワの浜へ、さらにカルスト地形の白い絶壁を過ぎ、八畳が岩のある古里の浜を歩いて船着き場に戻った。心の底から満足した1日だった。

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2010年4月 7日 (水)

沖縄その3・ひめゆりの塔

母はかねがね、戦争のことを考えると沖縄に行くのは辛いといっていた。でも今回はどうしても「ひめゆりの塔」に花をあげたいという。今から65年前、母と同年代の少女(当時15歳から18歳)と教師たち136人が犠牲になった陸軍病院の跡だ。母は今年82歳、紅いハイビスカスの入った小さな花束を献花台に捧げ、長い間手を合わせる小さな背中を見ていたら、戦争に対する新たな憤りがこみ上げてきた。
「ひめゆりの塔」とは、沖縄師範学校女子部の校友会誌『乙姫』と県立第一高女の校友会誌『白百合』を、両校の併置に伴い『姫百合』としたことからそう呼ばれる。薄暗い洞窟のなかで戦死者の埋葬や負傷者の世話などの重労働に明け暮れ、いよいよとなったら勝手に逃げろといわれて逃げまどい…、多くが殺されたり自決したりした。
「旧海軍司令部壕」「沖縄平和祈念堂・平和の礎」にも行った。美しい海に向かい戦没者の名前が彫られた黒い大理石の版が立ち並ぶ「平和の礎」。沖縄戦での戦没者は20万人(日本側は18万8136人、アメリカ側が1万2520人)といわれているが、本当はもっと多くて24万人だということだ。沖縄では4人にひとりが戦争で命を落とした。

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2010年4月 6日 (火)

沖縄その2・世界遺産

那覇市内の世界遺産に登録されている遺跡をいくつか見た。
『玉陵』は琉球王の墓。1501年に尚真王が父の遺骨を改葬するために築き、それ以後第2尚氏王統の陵墓となった。第2尚氏は尚円王から19代の尚泰王まで続いた。これは戦争で破壊され復元されたもの。『首里城』も同じく復元されたものだ。1879年に19代尚泰王が明治政府に明け渡すまでの500年間、琉球王の居城だった。首里城の南にある『識名園』は王家の別荘だったところ。1799年、15代尚温王の時代に建造された廻遊式庭園で琉球文化を感じさせる広大な庭園だ。ここも戦争で破壊されて復元された。市内に残る王朝時代の石畳もほとんどが復元されたもの。
沖縄は戦争ですべてを失ってしまったのだと実感した。昔のまま残っていたら、どんなに素晴らしかったことだろう。復元された世界遺産…残念だがそれも仕方ないことだ。

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2010年4月 5日 (月)

沖縄その1・美ら海水族館

写真は美ら海水族館の大水槽

沖縄に行った。美ら海水族館は春休みのせいか家族連れや子供たちでごった返していた。入るとすぐに大きなプールがある。ヒトデやナマコを直接手で触って観察できるタッチプールだ。外は雨だし館内は混雑していて何となく気が乗らない、と思いながら人垣のうえからプールを眺める。何やら色とりどりの玩具のヒトデなんかが見える。やっぱり本物なんて置いていないのだと思いつつも、子供たちにまじって手を入れて触ってみる。やっぱりゴムでできている、と独り言をいったら隣りにいた女の子が、生きているんだよ、という。ええ、本当これ生きているの、うん、と女の子は頷く。いっぺんに楽しくなってしまった。ゴムみたいな水色や赤や黄色のヒトデ、黒いマシュマロみたいなナマコ、よく見れば動いている。可愛い!素晴らしい!こんな不思議なものが生きているなんて! 
大水槽にはジンベエザメが数尾、コバンザメなどを従えてゆうゆうと泳いでいたし、蛍のように点滅するヒカリキンメダイなども見た。やっぱり評判通り、沖縄の水族館は素敵だった。

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