旅行

2017年12月13日 (水)

加古川・「エデン」

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かつめしのエデン

 

加古川駅で妹が「かつめし」のパンフレットを見て、ランチはこれね、という。加古川の「かつめし」は、戦後に始まりだんだん名物となり、今は町の代表的な「食」になっているらしい。加古川は初めてなので、駅の案内所で、「かつめしレストラン」を聞く。駅から近いところにどこか?と聞くと「エデン」という老舗店を教えてくれた。数分歩いて目的の店を見つけたが、店は熱海にあるようなレトロな外観で、店内も同様。1時を過ぎているのに店はいっぱいで、ウエイトレスがひとりで忙しそうに走り回っている。カウンターのなかではふたり(私たちより少し若いくらい)の女性が、これまた忙しく立ち働いている。私たちは名物のカツレツの上にドミグラスソースがかかった「かつめし」と、同じようにドミグラスソースのかかった「ハンバーグスパゲティー」を注文して、白ワインを1杯ずつ飲んだ。いつもは昼酒はやらないことにしているのだが、今日は「石の宝殿」も見たし……(だから何だというのか、訳が分からないが)。ワインはなみなみとつがれ、まったく気分が良い。東京みたいにワイングラスの3分の1しか注いでくれないなんてことはない。私たちはワインを飲みながら、ゆっくりとたくさん食べて店を出た。私たちが最後の客だったらしく、出口でお金を払う時には、忙しく立ち働いていたウエイトレスが、すみっこで「かつめし」を食べているのが見えた。みなてきぱきとよく働くお店、という好ましい印象。「このお店は女性ばかりでやっていらっしゃるんですね、ごきょうだいですか」というと、「私と彼女は同級生なんですよ」とカウンターのなかにいた女性を見ながらいった。料金も安くて満足。親の代に始めた店を、娘さんが継いでいるのかしら……。加古川からJRで三ノ宮に、そして私鉄に乗り換えて新神戸へ。新神戸から新幹線で帰京した。

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2017年12月10日 (日)

石の宝殿

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11月に父の23回忌で神戸へ墓参に行った。有馬温泉に一泊した後、念願の「石の宝殿」を見に行く。妹が一緒に行ってくれるというので、三ノ宮でJRに乗り換えて宝殿駅へ向かう。「石の宝殿」とは「生石(おうしこ)神社」にある不思議な巨石だ。ここは古くから「鎮の石室(しずのいわや)」として風土記や万葉集にも見られ、松本清張の長編小説『火の路』にも登場する。
駅からタクシーで生石神社へ。駐車場で降りて神社に入って行くと、鳥居の下で、七五三の晴れ着を着た子どもたちや正装した大人たちとすれ違った。石段を登ると拝殿があり、拝殿の奥に巨大な岩が……神社のご神体だ。三方を切り立った岩の壁で囲まれ、水が溜まった側溝のようなものの上に巨石が鎮座している。岩には浅い切り込みが見られ、人工的に削り取られた部分が富士山のような形をしている。形や大きさなどが奈良の「益田岩船」に似ているとして、清張は『火の路』のなかで、明らかに未完成のこの二つの巨石「両者は偶然に完成にいたらなかったのではなく、必然的な同じ理由で、同時に完成が放棄されたのであろう」、そして「石の宝殿も益田岩船の近くに置かれるべく造られていたという可能性を否定できない」と、主人公の論文を借りて記している。
宝殿の周囲にそびえる岩の上へ登り、上から巨石を見下ろす。樹木が茂り石の破片が積もっている。目を上げれば遠く播磨灘が銀色に光り、瀬戸内の穏やかな風景が広がる。しかしながら、この山はどうやら採石場らしい。岩を削り取った後が生々しく露出している。……それにしても、妹はなかなか上がってこない。やっと登ってきた妹は「いつも歩くのがいやですぐにタクシーに乗るのに、こういう時だけはものすごく元気なのね」などという。確かにそれはいつもいわれることだ。遺跡に立つと神がかりのようにエネルギーが湧いてくる。
神社には古い石段があった。そこはあまりに急なので、近年になって登りやすいように駐車場の脇に登り口を作ったのだろう。私たちは駐車場から入ってきたのだが、古い石段は何とも趣があり、私たちも下りてみようということになった。手すりにつかまりながらそろそろと降り始めたが、下を見ると救急車が停まっているようだ。どうしたのだろうと思っていると、担架に乗せられた高齢の男性が救急隊員に付き添われて、額から血を流しながら車に運び入れられるのが見えた。多分、石段から落ちたのだろう。救急隊員の「奥さん、…」という声が聞こえたので夫婦で降りていたのかもしれない。救急車は出ていき、私たちもやっと下まで降りた。宝殿駅には昼食をとるところも見当たらなかったので、加古川駅まで行くことにしてタクシーを呼んだ。

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2017年11月28日 (火)

小豆島『二十四の瞳』・岬の分教場

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中山千枚田、そして農村歌舞伎舞台をみて、小説『二十四の瞳』やその映画の舞台となった「岬の分教場」に行く。分教場は明治35年に田浦尋常小学校として作られた。昭和46年に廃校。校舎に入ってみれば、何と、私が小学校に入学した時に座ったものと同じ、ふたり掛けの素朴な木の机と椅子が並んでいて、黒板の横には当時のオルガンも置いてあった。60年前の懐かしい教室の風景だ。
壼井栄の『二十四の瞳』を何十年ぶりかで再読した。大石先生と12人の子どもたちが主人公。次第に激しさを増して行く戦争。大石先生も結婚して3人の子どもに恵まれるが夫は戦死し末の子どもを亡くす。男の子たちは戦地へ行き、5人のうち還ったものは2人、そのうちのひとりは失明していた。女の子たちの運命も過酷で、戦争と貧困に打ちのめされたような短い人生だった子どももいる。小説『二十四の瞳』には愛と思想がある。壼井栄は54歳の時『二十四の瞳』で一躍有名になり、57歳で没した。
映画村で「壼井栄文学館」をみて、そこで記念に『二十四の瞳』の文庫本を買い、昼食をとって寒霞渓、そして西光寺へ。西光寺に、私が大学生の頃から興味を持ち続けている「隠れキリシタン」の墓があり、小豆島にも渡っていたのだ、と感慨無量だった。

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2017年11月24日 (金)

小豆島「江洞窟」の庵主

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フェリーで小豆島へ向かった。雨は止んだが天気は悪い。スペインから持ってきたという1000年オリーブの木を見たあと、巡礼の60番札所、弁財天を祀る「江洞窟」へ向かう。
庵主は97歳の宮城英徹氏。彼は長野県旧制松本高等学校卒。戦後、得意の英語を活かしてGHQに勤務。その後、商社員となってイラクに滞在、80歳を過ぎてから、高野山大学、大学院修士課程で仏教(真言宗)を学び御仏に入門したという。修士論文も立派なものだ。生涯独身で、今も信じられないくらいお元気。いったいどんな人生をおくってきたのだろう、そしてなぜ80歳を過ぎて仏門に入ろうなどと思ったのだろう。戦中戦後の日本で、またイラクで何を見て何を思ったのか……詳しい話を伺うことはできなかったけれど、このような方もあるのだと深く感じ入った。
その後、エンジェルロードと名付けられた砂洲へ。アガサ・クリスティーの『白昼の悪魔』の舞台となったイギリスのバー島やセントジョージ島、有名なフランスのモン・サン・ミッシェルのような感じで、干潮のときは地続きになり歩いて渡れるが、満潮になると渡れないという……イギリスやフランスのものに比べれば規模は非常に小さいが美しい場所だった。

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2017年11月23日 (木)

倉敷「エル・グレコ」で思うこと

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いつもの仲間5人で倉敷と小豆島に行った。倉敷に着いた日は、町を歩いて舟に乗り、古い土蔵を改装したレストランで食事をした。翌朝は、大原美術館を見たあと喫茶店「エル・グレコ」に入る。大きなガラス窓から色づき始めた蔦が風に揺れているのが見える。レトロな椅子に座って友人たちとコーヒーを飲みながら、ふと父のことを思い出した。
倉敷は亡き父と歩いたことがある。父とふたりで旅行ともいえない旅行をしたのはそれ一度きり。どこのホテルに泊まったのか記憶にないが、この「エル・グレコ」で父がコーヒーとチーズケーキを注文してくれたことはよく覚えている。当時、私はまだ大学生で卒論の資料を集めるため、大学で募集された韓国旅行に友人と一緒に申し込み、関釜フェリーに乗るために下関へ向かうことになっていた。同じ日に父は福山へ出張だった。「それなら1日早く出て、倉敷でも案内してやろうか」と父が言ったのだ。行きの新幹線のなかで会社の人に偶然出会った。父が「私の娘です」と紹介すると、その人は「まぁまぁ良いですから」と、父の顔もまともに見ないで立ち去ってしまった。父は「なんだ、いったい何を考えているんだろう」と少し不愉快そうに言いながら、どこか嬉しそうだった。
翌朝父と別れ、私は下関の集合場所で友人と落ち合い、色々な大学から集まってきた学生たちに混じって夜行のフェリーに乗り込んだ。夕食後、友人とふたりでフェリーのなかの喫茶室に座ってお茶を飲んでいたら、ちょっと格好の良い、いかにも商用で出かけるといった感じで忙しそうにそわそわと室内を見回していた若い男(といっても30歳は過ぎていただろう)が近づいてきて、「君たちは大学生ですか」と話しかけてきた。どこから来たのか、どこの大学か、なぜこのフェリーの乗ったのか、などと聞いた後、明日、自由時間はあるのか、もしあるのならソウル大学の男子学生を紹介するから会ってみないか、とても頭の良い気さくな学生たちだから是非紹介したい、タクシーに乗ってくれば良い、と言い一枚のメモを渡した。私たちは20歳を少し過ぎたばかり、その男の言葉を全面的に信じ、疑うことなど思いもしなかった。翌日、指定された時間がもし自由時間だったら、彼女と二人でその場所へ行っていたかもしれない。そうしたらどうなっていただろう。犯罪に巻き込まれて被害者になっていたかもしれない。ずっと後になって、ある人にこの話をしたら、えぇーと驚かれてしまい、「何を呑気なこと言っているの。北朝鮮に拉致されるところだったんじゃないの?」と言われた。そうかもしれない、確かにそうかもしれない、まさしくそんな時期だった!その時はそう思ってぞっとしたが、今は、考えても分からないことを考えても仕方がない、と思っている。あまりにも遠い昔のこと……父を思い出しながらコーヒーを飲んでいたら、とんでもない方向に記憶が流れてしまった。

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2016年12月12日 (月)

法師温泉

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法師温泉に行った。法師温泉は昔から知る人ぞ知る古い湯治場だった。その長寿館は川瀬巴水の版画にもなっている。しかしここを決定的に有名にしたのは、1982年の国鉄「フルムーン」のコマーシャルだった。コマーシャルに使われたのは明治時代に造られた湯殿だが、そこは今でも昔ながらの混浴だ。

部屋は明治8年に建てられた本館2階の突き当り。8畳間の周囲は雪見障子で仕切られた廊下がめぐらされ、窓からは別館と法師川が、その奥に冬枯れの山が見えた。

お茶を入れてくれた仲居さんに、この部屋には誰が泊まったのですか、と聞くと「私はアルバイトなので、ちょっと待ってください。聞いてきます」といって出ていった。戻ってくると、ここは川端康成が泊まった部屋だという。そして床の間を指さして、「そこにかかっているのは、川端先生の息子さんの直筆の歌なんです」という。見れば『いにしへに父やどりしをおもひ出で囲炉裏に上座賜ひます宿・旅人』と書かれた軸がかかっている。「旅人……旅人といえば若山旅人、牧水の息子ではないかしら」。すると仲居さん、「いいえ、これはただの旅の人、という意味ですよ」などという。本当にそうかしら、見れば見るほど、牧水そっくりの丸い文字で書かれている。若山牧水も法師温泉に泊まり、帰りに沼田の生方家(生方たつゑの嫁ぎ先)に立ち寄ったことがあるのだ。展示棚には生方家から寄贈された牧水のとっくりなども置いてある。きっと仲居さんが間違えて聞いたのだろう。この本館には、政治家や軍人、小説家や歌人など、本当にたくさんの人々が宿泊した。与謝野晶子などは籠に乗ってやってきたらしい。そんな写真も展示してある。

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2016年10月20日 (木)

余部鉄橋

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写真は保存されている旧余部鉄橋

毎年恒例の、息子の小学校の母親仲間との小旅行にでかけた。今回は、丹後半島と城崎温泉。羽田から伊丹、伊丹から小さな36人乗りのプロペラ機に乗り替えて但馬空港へと向かう。「天空の城」として話題になった竹田城跡、古い城下町の出石、豊岡、そして日本三景の天橋立、船屋の立ち並ぶ伊根、玄武洞などを見て歩いたが、最も印象的だったのは余部(あまるべ)鉄橋だった。明治45年に完成した鉄橋は平成22年にコンクリート橋に架けかえられたが、旧鉄橋も一部保存されている。見上げれば眩暈がしそうなほどの高さ……海に向かって左右の山をまたぐように架けられている。

私は「橋」を見るのが好きで、イギリスでは真っ先にアイアン・ブリッジを見に行ったが、セヴァーン川に架かる鉄橋は想像以上に美しくて素晴らしかった。まさに産業革命の象徴だった。ここはイギリスの鉄橋とは風情が違うが、同じように人々が苦労して造ったのだろうと感動しつつ眺める。この橋で、昭和61年12月28日午後1時25分ごろ、悲惨な事故が起こった。山陰本線の列車7両が強風にあおられて鉄橋の上から落ち、下にあったカニの加工工場を直撃、パートで働いていた主婦5人と車掌が犠牲になった。死者6名重症者6名。運転手は機関車に乗っていたので一命をとりとめた。回送電車(お座敷列車だったとのこと)だったので、車両が軽くて強風に飛ばされてしまったのだろうか。橋の下には白い慰霊塔が立っている。

宿は城崎温泉だった。志賀直哉の随筆(エッセイ)『城の崎にて』は、筆者が山手線にひかれて九死に一生を得たあと、城崎で静養したときに書かれた。蜂の死骸、川に流される傷つけられたねずみ、自分がうっかり殺してしまったイモリのことなど、小さな弱きものの命と死を見つめる随筆は、中学の教科書にも載っていた。

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2015年10月16日 (金)

上高地・河童橋

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雨の河童橋

 

今回の旅行のもうひとつの目的は上高地の「河童橋」。諏訪から松本に向かうあいだに空模様はすっかりあやしくなって、パーキングに着いた頃から雨がぽつぽつ降りだした。車を置いて、タクシーで上高地帝国ホテルに向かう。釜トンネルを抜けると突然、赤い山肌の焼岳が姿をみせ、雨に濡れて静まりかえる大正池が左手に見えてくる。子どもの頃、水中で立ち枯れた白樺の写真を見て神秘的だと感じたものだったが、今はもう、ほとんど木々は腐ってしまったという。

ホテルに着いて部屋に落ち着いたあと、「河童橋」まで歩こうということになった。ホテルで傘と雨合羽を借りて出ていく。木道をわたり、梓川のほとりの道を20分ほど歩くと「河童橋」。「河童橋」は明治43年にはね橋から吊り橋にかけかえられた。現在の橋は5代目だという。

芥川龍之介の小説『河童』はまさしくここが舞台。上高地から穂高に登ろうとした男が、梓川のほとりで霧に迷い河童に出会うところから始まる。自殺の直前にまとめられた最後の小説だ。芥川の憧れの人であった片山廣子も、この小説に限りない愛着があったのだろう、のちに廣子は『カッパのクー』を翻訳している。きっとこの小説をとおして芥川の心を理解したのだと思う。

それにしても雨である。ホテルに戻るころはひどい嵐になった。夜半も、吹き荒れる風雨の音で目が覚め、うとうとするとまた目が覚めるという繰り返しだった。けれども翌朝は、穂高の上の空は雲が切れて、美しい青空がのぞいていた。

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2015年10月 7日 (水)

諏訪の片倉館

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夕暮れの片倉館

 

中央高速から眺める山の姿は素晴らしい。富士山、南アルプス、八ヶ岳、そして遠くに北アルプス……秋の長雨も終わり、良く晴れた日が続くようになった今月初め、23日の小旅行に出た。今回の目的のひとつは、諏訪湖畔の「片倉館」。

午後3時半の館内ツアーに電話予約したとき、集合場所は庭の丸い池のほとりと聞いた。丸池の周囲は青系とピンク系のモザイクタイル、等間隔でエンジェルの像が置かれ、クロッカスをはじめ秋の花々が咲き乱れている。中央に木が植えられていて、水は地下水なのか、ポンプでくみ上げられている。ツアー料金はひとり500円。建物は重要文化財。

「片倉館」はこの地で製糸業を営んでいた片倉兼太郎(2代目)が、昭和3年(1928年)に地元の人々の福祉施設として建設したもの。会館棟と浴場棟のふたつからなり、渡り廊下でつながっている。設計は森山松之助、湖畔の湿地帯なので地盤を固めるために地面に杭をたくさん打ち込んであるという。2棟の外観は洋風建築。会館棟の内部はすべて和風で、大広間や個室などで占められ、浴場棟には通称「千人風呂」といわれる同型の温泉施設、男女ふたつの風呂がある。地下には蒸気風呂があったが、今は使われていない。開業当時は浴場の壁に水槽がありその中に諏訪湖の魚を泳がせていたというが、それも今はない。その当時(新井旅館にもあったように)お風呂に水槽、というのが流行ったのかもしれない。

会館棟の正面には片倉財閥が九段の靖国神社に奉納したという高村光太郎作の一対の狛犬の模型が置かれていた。大広間や個室は今も使われており、お正月や夏休み(花火大会)は人々で賑わうとのこと。会館棟を見てから浴場棟の「千人風呂」へ。ツアーに参加すると200円引きなので300円を払って入る。風呂は洋風でタイルやステンドグラスが施され、湯船の床は黒い小石が敷き詰められていて110センチの深さ、小さな子どもは足が立たない。想像していたよりも広くはなかったが当時としては画期的だったのだろう。ほんのりと硫黄の匂いが立ち込め、真っ赤な西日がゆがんだガラス窓から斜めに差し込んで満たされた湯の表面をたゆたっている。これが「千人風呂」……私は女工さんたちのために作ったのだとばかり思っていたが、地域の人のためだったのだ。かの富岡製糸場も最後まで片倉工業の所有だったはずだ。時がゆっくりと流れ……諏訪湖の対岸に陽が落ちる。

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2013年10月30日 (水)

京都・時代祭り

 ほかの用事で京都に行ったが、たまたま時代祭りの日と重なった。めったにこんなことはないと思って、平安神宮の大きな門の前に立って見物する。
 時代祭りは、葵祭り、祇園祭りと並んで、京の三大祭りのひとつだ。
 最初に明治の志士や鼓笛隊の行列がくる。それから江戸時代、室町時代、鎌倉時代、そして平安時代とだんだん時代をさかのぼっていく。歴史上の有名人物などに仮装して歩いてくる。清少納言と紫式部が通ったので、それを見て引き上げる。2時半前から見はじめて、1時間半近く眺めていた。

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