震災

2012年5月17日 (木)

西日本新聞・文学展望

 6時に起きて外を掃こうと出て行ったらポストに何やら大きな茶封筒が…。そういえば昨日はポストまでも行かなかった…。
 封筒は西日本新聞社からだった。先日、記者から電話があり私の顔写真を送って欲しいとのことだったので、以前ベストライフに書いていたときに使っていた写真を、大分前の写真なので誇大広告かな、と思いつつ送る。
 それきり何もいって来ないので私自身も忘れていたのだが、開けてみると5月4日の新聞だった。紙面の4分の1を占める大きな記事で『火山地帯』最新号に掲載された『天の采』を取り上げている。
 筆者は長崎純心大学教授・長野秀樹氏。最初に近松門左衛門の芸術論として有名な「虚実皮膜」(真実は虚と実のあいだにたゆたっている) という言葉を挙げ、私の作品を「…作者は巧みに虚構を織り交ぜながら、日常の中に突如発生した悲劇をリアルに描き出していく…」と評している。

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2011年4月12日 (火)

元気を出さなければ…

 このひと月、多くの予定をキャンセルして家で静かにしていた。被災し亡くなった人たちの喪に服するような気持ちだった。ある種の空しさが心の大半を占めていて前向きな気持ちになれなかった。気力がない。だからといって忙しくなかったわけではなく、家族や周囲の人々のためにどうしてもしなければならないことがあり、雑用に追われていたといってもいい。
 今回の地震と津波と原発事故で私はかなり精神的に参っている…と自覚している。東京も強い地震に見舞われ、その後も毎日数え切れないほどの余震にゆすぶられていても、失ったものは何もないのだからそれほどまでに考え込まなくても…と思ったりもする。でもやっぱり他人事ではないのだ。被災地からの報道を見聞きするたびに、我知らず涙がこぼれてため息が出る。
 夕方、久しぶりに親しい友人のM子さんから電話。彼女も私と同じようなことをいっていた。「私が神経質すぎるのかしら」というと、「そんなことはないわ、私もまったく同じ気持ちよ」という。日本人はみな多かれ少なかれ普通ではいられない。「でも、こんなことではいけないわね。元気を出しましょう」お互いにそんなふうに励まし合った。

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2011年4月 5日 (火)

重茂半島の石碑


 写真は東京の桜

 1週間ほど前の読売新聞にこんな記事が載った。
【東日本巨大地震で沿岸部が津波でのみこまれた岩手県宮古市にあって、重茂半島東端の姉吉地区ではすべての家屋が被害を免れた。『此処より下に家を建てるな』重茂半島の突端、トドヶ崎に建てられた石碑の文字だ。1933年の昭和三陸大津波の後、海抜60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り、坂の上で暮らしてきた住民たちは改めて先人の教えに感謝していた…】
 これを読んで、私は救われたような気持ちになった。
 重茂半島には本州最東端のトドヶ崎灯台がある。映画『喜びも悲しみも幾年月』のもとになったエッセイを綴った田中きよさん一家が暮らしていた灯台だ。次女の春代さんは今でも宮古に住んでいる。春代さんにいくら電話をしても通じないので今日は手紙を書いた。ポストに向かう道にも桜が花ひらいている。桜木の下に立って見上げると、心なしか今年の桜は寂しげな薄墨色に染まっているようだ。
 

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2011年3月23日 (水)

宮古サンライズ

 大地震から12日が過ぎようとしている。宮古のKさんとHaruyoさんのことが頭から離れない。すぐにKさんにメールを出したが返信はないし、どうか無事であってほしいと毎日祈るような気持ちだった。それが先ほどKさん本人も家族も無事というメールが入った。本当に良かった!
 ベストライフ・オンラインに『本で読む名画・名舞台』を連載していた2007年、私はシリーズ最後になる『喜びも悲しみも幾年月』を書くために資料集めをしていた。この映画は、1956年(昭和31年)、塩屋崎灯台長だった田中績氏の夫人きよさんが『婦人倶楽部』に発表したエッセイ『海を守る夫とともに二十年』を木下恵介が読んで心打たれ、脚本を書いて製作したものだ。
 様々な資料を調べるうちに、田中夫妻が暮らしていたトドが崎を含む岩手県宮古のホームページ「宮古サンライズ」に行きあたった。何とも心細い気持ちで問い合わせのメールを出したところ、すぐに返信があった。Kさんが連絡してくれたらしく『みやこわが町』の編集長Hさんからすぐに資料が送られてきた。 Kさんの尽力から、きよさんの次女Haruyoさんとも連絡が取れた。Haruyoさんは宮古でお店を開いている。その名も「ライトハウス」。ちなみに灯台とは航路標識のこと。海上保安庁の航路標識事務所の人々がお店に集まり「燈台守の歌」を合唱することもあるという。Haruyoさんが送ってくれたビデオにはお祝いの席でダンスをするスマートな田中夫妻の姿もあった。CDには生前のインタビューの様子も収められていた。親切な人々のお陰で豊富な資料に恵まれ、私は満足してシリーズを終えることができた。拙稿がベストライフに載った後も「宮古サンライズ」には、拙著『チップス先生の贈り物』と『わしといたずらキルディーン』の話題が掲載され、今でもリンクが張られている。Haruyoさんからは毎年年賀状が届く。
 Kさんは「いつか必ず伺いたいと思います」いう私のメールに、「足腰を鍛えておいてください。トドが崎灯台まで徒歩で50分あります」と返事をくれた。「宮古にしかない風景が好き」といっていたKさん、「機会があったら是非宮古にきてください」といってくれたHaruyoさん…Kさんが無事で本当に良かったけれど、Haruyoさんのことはまだ分からない。宮古の高い堤防を越えて美しい家並みを襲った大津波のことを考えると、胸がしめつけられるようだ。

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2011年3月16日 (水)

大地震

 3月11日午後2時46分、京都の友人M子と自由ヶ丘の住宅街のなかにある小さなアンティーク・ショップにいるときに地震に見舞われた。M子とふたりで手を取り合って外に出たが、ふわりと空中に浮いたような不思議な気分で、それなのに足だけは地面に埋められたみたいに動かなかった。それこそ生まれて初めて、町並みがお盆に乗って運ばれるスープみたいに揺らめくのを見た。灰色の空がやけに眩しく、電信柱と電信柱のあいだに渡された電線が縄跳びの縄のように揺れ、周囲の二階建ての家々が軽業師のように身をくねらせていた。道路はふわふわと膨らんで、子供の頃、多摩川園遊園地で乗った『コーヒーカップ』みたいにこの世が回転しそうだった。聞こえるものは木々や電線の揺れるザワザワした音とアンティーク・ショップの棚から物が落ちるガシャーンという音…まるで「恐怖」そのものが地下で叫び声をあげているような感じだった。
 収まるのかと思うとまた急激に揺れ、いつ果てるとも分からないほど長い時間が過ぎてやっと静かになった。横揺れだったので直下型ではないととっさに判断したが、それにしても至近距離で大きな地震が起こったに違いない。町は不思議なほどしんと静かだ。店の女の子がパソコンを開いて「震源は三陸沖です」といった。震源がそんなに遠くだとするとこの揺れ方は尋常の地震ではない。そう感じた私も、東北から関東にかけてマグニチュード9.0の地震が起こり、それから10分もしないうちに津波が次々と町を襲ったなどということは想像もつかなかった。
 私たちはいつも通りの賑やかさを取り戻した自由ヶ丘の町を駅まで歩いていった。歩きながら家族に電話するが携帯は全く通じない。メールも送れない。駅前は群衆で溢れていた。もちろん電車は停まっている。何年か前にM子たちと会い、東京駅で別れたあとひどい地震に見舞われ、山手線復旧を3時間待って帰ったことを思い出した。「M子と会うと地震が起きるね」と私。「偶然だろうけど不思議だね」とM子。いつくるとも知れないタクシーを待って寒空の下で並んでいるより、駅前のケーキ屋さんに入って様子を見ようということになった。喫茶店のボーイさんもいつになく親切で「ゆっくりして下さい」といいながら情報を提供してくれたりする。そうこうしているうちに、M子の友人のSさんが渋谷の自宅から車で迎えにきてくれた。Sさんには感謝してもしきれないほどだ。外はいつの間にか夕闇に閉ざされていた。車は渋滞し、中原街道沿いの両脇の歩道は考えられないほど多くの人々が静かに整然と歩いていた。

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