スポーツ・大会

2015年6月29日 (月)

ウィンブルドンのテニス

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ウィンブルドンのテニス大会は6月の最終月曜日から始まる。もう10年以上前のことだが前週祭に一度だけ行ったことがある。イギリスでは珍しいほど、美しく晴れた日だった。

球技というのは私にとって、ドッジボール、野球、バスケットボール、バレーボール、卓球といったところで、テニス、ゴルフは、まったくダメである。テニスはマドリッドに住んでいるころ、「科学博物館」の丘にあるテニススクールでスペイン人のコーチに習っていたが、テニスコートに着くまでの長い上り坂でくたびれてしまい、まったくものにならなかった。それでも1年ほどは通ったが、自分が打った球を自分で拾わなくてはならず本当に辛かった。(余談だが、ゴルフも少し練習したが、あらぬ方向に球がとび、あやうく子どもにぶつかりそうになってショックを受け、それきり止めた)

そうはいっても、せっかくロンドンに住んでいるのだし、有名なウィンブルドンのテニス大会なのだから雰囲気くらいは、と思いつつ出かけた。開場時間より1時間以上早く着いたのにすでに長蛇の列で会場に入るまでに2時間かかった。コートは全部で20面あり、センターコートと第1コートは大きなスタジアムで客席も多い。あとの18面はこじんまりとしたもので、美しい花で満たされている。敷地内の地下にはショッピングセンターがあって土産物店が軒を連ね、フードコートやレストランも充実(美味しいかどうかは別として)している。屋外にはBBCテレビのカメラやマイクが何台も据えつけられ、テレビでおなじみの解説者やアナウンサーが、目の前で入場者にインタヴューしていた。真っ赤に日焼けした人々が芝生の上にあふれ、ピムスやビールを飲みながらねっころがっている。私たちは12時から18番コートで、日本人選手とタイ人選手の女性試合を観戦した。それから第1コート脇の芝生で大スクリーンに映し出されるティム・ヘンマンというイギリス人選手の(私は良く知らなかったが人気者らしい)試合を見ながらピクニックランチ。テニス大会といえばピムス(ピムス酒に、きゅうり、レモン、オレンジの薄切りにミントの葉を入れレモネードで割ったもの)を飲み、泡立てていない生クリームをかけたいちごを食べるのが「ウィンブルドン風」ということらしい。大会は男女128人づつの選手が選ばれて、日本人もたくさん参加している。試合中に球拾いの少年少女が機敏にコート内を走り回るのが可愛いけれど、テニスは球拾いが……とまたまた苦い思い出が……。審判は女性試合は女性(緑色に細かい柄のある丈の長いスカートと上着)男性試合では男性(水色っぽいネクタイに、カンカン帽)だが、そろいもそろって年配の人たちばかり。何かきっと伝えられてきたものがあるのだろう。夕方、再び18番コートに入って男性試合をみた。私は客席に響く軽快なボールの音を聞きながら、気持ちよく居眠りした。強い日差しの下でピムスを飲んだからかもしれない。何といっても「百聞は一見に如かず」、前週祭とはいってもこれがウィンブルドンのテニス大会! 私は満足して帰宅した。

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2014年1月14日 (火)

木之本興三『日本サッカーに捧げた両足』

 大分前だが、木之本興三著『日本サッカーに捧げた両足』を読んだ。木之本さんはJリーグの生みの親、プロのサッカーチームを作った人のひとりだ。
 26歳でグッドパスチャー症候群という難病に侵され両方の腎臓を摘出、以後ずっと透析を続けている。さらに53歳でこれも難病のバージャー病になり、右足、さらに左足を切断した。
 凄まじいばかりの人生だが、少しよくなるとお酒も飲むし何でも好きなものを食べる。医師に、何でもしたいようにしたらいい、一番いけないのはストレスだといわれたという。
 本のなかに、中央大学のサッカー同好会が国立競技場でもぎりのアルバイトをしていた、とあり、急に大学時代に国立競技場でアルバイトをしたことを思い出した。
 高校時代の親友ふたりが中央大学のサッカー同好会にいて、彼女たちに誘われて何度も国立競技場に社会人リーグの手伝いにいったのだ。500円貰ったのをよく覚えている。何をしたのかはすっかり忘れてしまったが、競技場のボックスに座って仕事をした。もぎりをした覚えはない。ボールを集めたような記憶はあるが、それもはっきりしない。
 古河の鎌田光夫さんとか、釜本さんもよく覚えている。木之本さんも古河だったが、私がアルバイトをしていた時は、まだ筑波大の学生だったはずだ。
 木之本さんは夫と同じ高校の同学年、高校時代からサッカーが上手で有名だったという。NHKの番組「プロジェクトX」にも登場した。

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2010年11月26日 (金)

アジア大会・1958年東京

 1958年の5月、東京でアジア大会が開かれた。東京オリンピックは1964年だから、その6年前だ。
 当時大田区雪ヶ谷に住んでいた私は、小学校に入学したかしないかくらいの年だったが、アジア大会のことをとてもよく覚えている。それは祖母(母の母)が開会式に出場したからだ。出場といっても個人的なものではなく、たくさんの人に交じって同じことをする、いわゆるマスゲームに出場したのだ。祖母は東京府立第3高等女学校(現・駒場高校)の卒業生として、第3高女名物の「コチロン」というダンスに加わった。
 当日は、駅前通りにあった「長寿庵」というお蕎麦屋さんに行き、お蕎麦を食べながら小さな白黒テレビの前で目を凝らして祖母の姿を探したが、ぜんぜん認識できなかった。何だかハンカチのようなものを振ってダンスをしていたような記憶があるが、それは思い違いかもしれない。
 テレビは祖父母の家にはあったが我が家にはなかった。アジア大会の少し前から全国に普及しはじめ、東京オリンピックが開催された年にはどこの家にもテレビがあった。東京タワーは1958年にできたのだから…そういうことなのだろう。今、私はほとんどテレビを見ないが、アジア大会のニュースを懐かしく聞いている。

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2010年11月16日 (火)

白鳳63連勝

 白鳳が負けて63連勝でおしまいになった。NHKニュースを見ながら、座布団が飛んでいないのをなんだか物足りなく思う。(朝青竜の上には座布団の雨が降っていたのに) 
 観衆が興奮して座布団を放り投げるという場面に出くわしたのは、両国国技館が初めてだった。小学生の頃、親に連れられて相撲観戦にいった時、取り組みがどんなものだったかは忘れてしまったが、座布団が上からも隣からもポンポン投げられてとても面白くて印象的だった。それから20年ほどしてマドリッドの闘牛場でまったく同じ場面に出くわした。下手な演技をするマタドールに座布団の雨が降るのだ。(私が闘牛場に足しげく通っていたのは30歳代だから今はどうなのか分からないが) 因みに相撲も闘牛も「国技」だ。
 「興奮して物を投げる」という衝動は理解しがたいが、とても興味深い。相撲観戦ではどうして投げたくなるのだろうと子供心にも不思議だったし、闘牛観戦では人種が違ってもやっぱり座布団を投げるのだと納得。闘牛場の座布団はお金を払って借りているものだ。それをポンポン投げてしまうとは…。何も気にしないんだと思って可笑しかった。

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2010年10月16日 (土)

東京オリンピック

 10月10日体育の日は1964年の東京オリンピック開会式の日に因んで制定され、1966年から祝日となった。
 今はまったくオリンピックには興味がなく、いつどこで始まっていつどこで終るのかもわからない私だが、東京オリンピックの記憶は鮮明だ。私は中学生だった。開会式の日は秋晴れの清々しい日だった。当時、大田区に住んでいた私は2階にあった自分の部屋から都心方面の空に自衛隊の飛行機が描く5色5輪の大きな雲を見て、胸がわくわくしたものだった。毎日、夜遅くまでテレビの前に座って、体操競技だの、水泳だの、マラソン、それに東洋の魔女と呼ばれた女子バレーボールチームの活躍などを心躍らせて見入ったものだった。
 学校ではオリンピック観戦のチケットが配られた。全員ではなく抽選だった。私が引き当てたのはサッカーのチケットで、代々木の国立競技場でアフリカのどこかの国と東欧のどこかの国とが対戦する試合だった。朝から雨が降っていて、他の生徒たちは授業をしてるのに10人ほどのチケットに当たった生徒たちだけが先生に連れられて競技場に行った。制服の上にビニールのカッパを着て、冷たい雨に濡れながら、何だかよくわからないサッカーの試合を観戦したことを覚えている。学校ものんびりしていたなぁと思う。だいたい授業を抜けてオリンピック観戦なんて、今だったら問題になるのではないだろうか。全員が行くのならまだしも、抽選で当たった子供たちだけが…なんて。ある意味、良い時代だったのかもしれない。もう50年近くも前なのだから、考えてみれば遠い遠い昔のことだ。

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