日本語

2013年6月 4日 (火)

銀座・松坂屋デパート

 昨夕、気まぐれにテレビのスイッチを入れると、ある番組の予告らしきものが映った。変わった食べ物が好きだという人々の特集のようだった。レモンのお茶漬けとかラーメンにお砂糖をたくさん入れて食べる人などが紹介されていたが、気になったのはそれらを「偏食」と呼んでいたことだ。
 「偏食」という言葉は本当にそのような人たちに使うのだろうか。「偏食」とは好き嫌いが多く偏った食事をすることで、普通は食べない珍奇なものを好んで食べるのはむしろ「下手物喰い」と呼ぶべきだ、などと考えはじめ、ストレスが襲ってきたのですぐに消した。
 日曜日に久しぶりに銀座へ行ったら松坂屋で閉店セールをやっていたので驚いた。銀座通りの建物は昔とあまり変わらないので良い、と思っていたのだが、とうとう取り壊すことになったらしい。

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2012年7月 7日 (土)

雨男

 NHKのニュース(ラジオ)で「パンダのシンシンから赤ちゃんが生まれました」といっている。シンシンから?…そんないい方、ニュースに適切だろうか(どこか下手な英訳を思わせる)。話し言葉なら使われるが、報道の言葉としてはどうだろう。「パンダのシンシンが赤ちゃんを産みました」といえば一番わかりやすい。
 そういえば…このあいだ、早稲田大学図書館に資料を見に行った帰り、バスの中で60歳前後の女性グループと一緒になった。彼女たちは空いた席にばらばらに座り、大きな声で言葉を交わしている。と、その時、私の耳に金属の球が落ちてきた(ように感じた)。「あの人は雨男なのよね」という言葉。あめおとこをあまおとこ?…と発音したからだ。広辞苑に、雨男はあめおとこ、雨女はあめおんなとあり、あまおとこ、あまおんなとは発音しない。因みに、あまおとめは天女、あまがえるはカエル。ついでにいえば、雨上がりはあまあがりとも読む。

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2010年10月 8日 (金)

いかがだったでしょう

 最近、テレビやラジオのアナウンサー(多分)がよく使う言葉に「いかがだったでしょう」というのがある。耳障りな日本語だ。
 この場合「いかが」の次には「でしたか」と続くのが普通。因みに「だった」の前には「どう」がくる。「いかがでしたか」を少し砕けていうと「どうだった」という問いかけ言葉になる。
 「いかがだったでしょう」というのはいったい何だろう。「いかがでしたでしょうか」なら良いような気になるが、「いかがでしたか」のあとにもう一度「でしょうか」と二重に聞く必要もないのでそれもまたおかしな日本語だ。
 「いかがだったでしょう」は聞くたびに良い気持ちはしない。アナウンサーは一応、言葉のプロなのだから、きちんとした日本語を使ってほしい。こういういい加減な日本語は…いかがなものでしょうか。

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2010年9月 5日 (日)

忙しい

 空はすっかり秋の色…それなのに地上はなぜこんなに暑いのだろう。この暑いなか、私は座る時間もないほど慌ただしい毎日を過ごしている。ようするに「忙しい」のだが、「私は忙しい」とは書きにくい。「忙しい」という言葉は、もともと自分のことに使う言葉ではなかった。「お忙しいですか」「お忙しくて大変ですね」などと他者から労われるための言葉だったのだ。今は自分のことを「忙しくて…」などと平気でいうが本来はあり得ない使い方だった。確かに今でも、自分のことを「忙しい」という人は、どこか良い感じはしないものだ。忙しいのにこうして会いに来たのよ、忙しいからあなたのために何もできなかったの、という意味がないとはいえないのだから、恩着せがましく言い訳がましい。「忙しい」という言葉はなるべく自分のことには使わない方が良い。美しい日本語を守ることが日本の文化を受け継いでいく基本なのだから。

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2010年9月 2日 (木)

翻訳とは

 6月に書いた『翻訳は難しい』にアメリカ通信さまに次いで、裕和さまよりコメントを頂いた。有難うございました。そもそも翻訳とは≪上から下へとなされる作業(学問や文化が上位から下位へ流れるように)で、それぞれの国語(地方語)に直されて庶民にも読まれるようになった。日本では明治時代になって、翻訳本がたくさん出版されたが、日本語で書かれた作品は、いくら優れたものでも、なかなか英語に訳されなかった。しかし、戦争中にアメリカ政府が日本の情報を得るために言語学者に日本語の研究をさせたことから、戦後は日本語で書かれた作品が英語に訳されることも多くなった。川端康成がノーベル文学賞を受賞したのは、ひとえに良い英訳本があったからではないのか≫…水村美苗の『日本語が亡びるとき』という本のなかに書かれていることをかいつまんで書くとそういうことになる。
 また≪今や世界の共通語は英語となってしまった感があるが、もともとヨーロッパではラテン語が重要で、キリスト教の聖典などはごく少数の教養ある聖職者によってラテン語で羊用紙に書き写されていた。そもそも書き言葉と話し言葉は違っていて、書き言葉こそが言語であった。だからたとえ話せても、読めない書けない人は問題外である。ヨーロッパではそれぞれの国で話し言葉としての言語はあったがグーテンベルク印刷器が発明されてから印刷術が普及し、書き言葉が庶民のものになった。それぞれの国語はラテン語やギリシャ語に当てはめられて発展した。それを翻訳という≫とも書いてある。翻訳とはそういうもの…とすると、翻訳という言葉を日本人のほとんどはまったく理解していないということになる。

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2010年6月 7日 (月)

翻訳は難しい

 『モルグ街の殺人・黄金虫』『アッシャー家の崩壊・黒猫』(これまた新品を購入)と、ポーの短編集を2冊立て続けに読んだが、つくづく翻訳というのは難しいものだと思う。(特にポーは難しいのかもしれないが)
 ただ外国語に精通していればいいというわけではない。原作の言葉(言語)を正確に訳すのは当然としても原作の雰囲気を損なってはならない。そのためには書かれた時代背景(歴史や文化、習慣や当時の流行など)をよくよく知らなくてはならないし、もちろん作者の人生そのものも知っていなければならない。
 そして大きな問題はやはり日本語だ。いつも訳本を読んでいて思うのはいいかげんな日本語で訳された本が多いことだ。はじめから日本語で書かれた作品は間違った日本語でもそれは作者のものだからある面では許される。でも訳本は違う。まず訳者が心してかからなければならないのは、いかに正確な日本語に置き換えるかということだ。日本語に当てはまりにくい文章も多いと思うが、ばったり倒れるような気分にさせられる個所はなるべく少ない方が良い。

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2010年3月10日 (水)

ハチ公が亡くなる???(2)

(昨日の続き)
なぜ、「餌をあげる」「水をあげる」がおかしいかといえば、本来は「あげる」とは「上げる」であって「差し上げる」という意味だからだ。人間が動物や植物に対して何かを「差し上げる」とは言わない(宗教的儀式なら知らないが)。そこまでへりくだるとお笑いになってしまう。それよりも「遣る」方が適切な言い方。だから「赤ん坊にお乳をあげる」のも「息子に朝食を作ってあげる」のもおかしい。愛する子供たちをいたわり慈しみ「お乳を遣り」「作って遣る」のが正しい。
またまたついでにいうと、近頃テレビやラジオで食べることを「いただく」というのをよく聞く。「食べる」という言葉は決して悪い言葉ではない。他はけっこう乱暴な言葉を使っていながら食べることだけ「いただく」などというのはまったくアンバランスだ。「いただく」とは頭の上に捧げ持つこと、「いただきます」というだけでじゅうぶんではないでしょうか。

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2010年3月 9日 (火)

ハチ公が亡くなる???

天気予報を聞こうと思いNHKテレビをつけるといきなり「ハチ公が亡くなる」という文字が目に飛び込んできた。ぎょっとして見ているとどうも「過去の今日という日に何が起こったか」というような他愛もないことだったらしい。けれども「ハチ公が亡くなる」という言い方に驚いてしまった。アナウンサーは原稿を読むだけだから番組担当者の責任だろうが、NHKには高い聴視料を払っているのだからもっと気をつけてほしいものだ。
「亡くなる」という日本語は犬には使う必要はありません。犬には餌も「上げたり」しません。日本語では「愛犬が死んだので悲しい」「犬に餌を遣る」といいます。ついでにいうと「花にも水をあげたり」しません。花には水遣りをするのです。「思い遣り」の「遣り」ですよ。餌や水を「遣ること」はいたいけなものをいたわり慈しむことなのです。
私たち日本人が長い間培ってきた、美しく繊細な日本語を大切にしたい…。

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