遺跡

2017年12月10日 (日)

石の宝殿

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11月に父の23回忌で神戸へ墓参に行った。有馬温泉に一泊した後、念願の「石の宝殿」を見に行く。妹が一緒に行ってくれるというので、三ノ宮でJRに乗り換えて宝殿駅へ向かう。「石の宝殿」とは「生石(おうしこ)神社」にある不思議な巨石だ。ここは古くから「鎮の石室(しずのいわや)」として風土記や万葉集にも見られ、松本清張の長編小説『火の路』にも登場する。
駅からタクシーで生石神社へ。駐車場で降りて神社に入って行くと、鳥居の下で、七五三の晴れ着を着た子どもたちや正装した大人たちとすれ違った。石段を登ると拝殿があり、拝殿の奥に巨大な岩が……神社のご神体だ。三方を切り立った岩の壁で囲まれ、水が溜まった側溝のようなものの上に巨石が鎮座している。岩には浅い切り込みが見られ、人工的に削り取られた部分が富士山のような形をしている。形や大きさなどが奈良の「益田岩船」に似ているとして、清張は『火の路』のなかで、明らかに未完成のこの二つの巨石「両者は偶然に完成にいたらなかったのではなく、必然的な同じ理由で、同時に完成が放棄されたのであろう」、そして「石の宝殿も益田岩船の近くに置かれるべく造られていたという可能性を否定できない」と、主人公の論文を借りて記している。
宝殿の周囲にそびえる岩の上へ登り、上から巨石を見下ろす。樹木が茂り石の破片が積もっている。目を上げれば遠く播磨灘が銀色に光り、瀬戸内の穏やかな風景が広がる。しかしながら、この山はどうやら採石場らしい。岩を削り取った後が生々しく露出している。……それにしても、妹はなかなか上がってこない。やっと登ってきた妹は「いつも歩くのがいやですぐにタクシーに乗るのに、こういう時だけはものすごく元気なのね」などと言う。確かにそれはいつも言われることだ。遺跡に立つと神がかりのようにエネルギーが湧いてくる。
神社には古い石段があった。そこはあまりに急なので、近年になって登りやすいように駐車場の脇に登り口を作ったのだろう。私たちは駐車場から入ってきたのだが、古い石段は何とも趣があり、私たちも下りてみようということになった。手すりにつかまりながらそろそろと降り始めたが、下を見ると救急車が停まっているようだ。どうしたのだろうと思っていると、担架に乗せられた高齢の男性が救急隊員に付き添われて、額から血を流しながら車に運び入れられるのが見えた。多分、石段から落ちたのだろう。救急隊員の「奥さん、…」という声が聞こえたので夫婦で降りていたのかもしれない。救急車は出ていき、私たちもやっと下まで降りた。宝殿駅には昼食をとるところも見当たらなかったので、加古川駅まで行くことにしてタクシーを呼んだ。

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2015年11月 4日 (水)

naram gacchami

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益田岩船

 

先日、用事があって関西方面に出かけ、足をのばして奈良へいった。奈良、特に飛鳥は、学生時代、休暇になるたびに友人たちとよく出かけたものだ。私と同じように不思議な石造物が大好きな仲間がいたのだ。石舞台、亀石、酒舟石遺跡、鬼の雪隠、鬼の俎、二面石、猿石……それなのに益田岩船だけは見たことがなかった。考えてみれば今から45年ほど前のこと、なんだかとても行きにくいところにあったような記憶がある。

今回、そこへ案内してくださったのは、大学やセミナーなどで教鞭をとるサンスクリット語のH先生。某冊子の私の連載のあとに、彼女のサンスクリット語に関する連載が始まったというご縁だ。出会ってからの年月は浅いけれど、話をするうちにすっかり意気投合してしまい、仲良しになった。私もサンスクリット語をひとつだけ覚えた。naram gacchami(ナラム・ガッチャーミ)、「私は奈良へ行く」という意味だ。

かなり傾斜のある土手を、彼女が先になりよじ登っていくと、目の前に巨大な岩があらわれた。見ているだけで怪しい魅力の重みで心が押しつぶされそう。素敵!と叫びたくなるような神秘の岩。何の目的でこのような巨石に人の手が加えられ、何に使用されたのかもまったくわからない。彼女の説明によると、さまざまな意見があるがやはり宗教的なものではないか、もしかしたらゾロアスター教が関係しているかも……と。松本清張の『火の路』、面白いですよ、と勧められ、早速読みふけっている。

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2014年8月 3日 (日)

鵜木大塚古墳


 写真は鵜木大塚古墳

 運転免許の更新のために田園調布警察署に行った。1時間もかからないうちに終わり、新しい免許証をもらって中原街道を駅へと向かう。暑いとはいっても心なしか夕暮れの風がさわやかだ。
 歩きながらふと、この近くに、子供のころ父が何度か散歩がてら連れてきてくれた小さな古墳があったことを思い出した。静かな住宅街のなかでそこだけが異空間で……なぜかとても心惹かれるものがあった。
 今でもあるのだろうか、と思って気にして歩いていたら、1本の道の奥に遠く小高い丘が見えた。街道からかなり離れていて、赤い鳥居があり木々が鬱蒼と茂っている。
 あそこかしら、と思って街道を左手に折れて歩いて行くと、小学校の先に『鵜木大塚古墳』と書かれた看板がたっていた。昭和の初めに史跡指定されているので、今は亡き父も知っていたのだろう。南側にはなぜか稲荷社があり、削り取られたような石段が上へと続いている。異空間というよりかなりおどろおどろしい雰囲気だ。私が子供のころは、これほど木が茂っていなかった。螺旋状の踏み固められた細い道が頂上まで続いていて、子供たちの遊び場になっているのかな、と思った。
 ここは本来の鵜木とは離れているが、江戸時代はいわゆる「飛び地」だったらしく鵜木の名がついている。直径27メートル高さ6メートルの円墳で、亀甲山古墳や宝来山古墳とも関係がある。多摩川の台地には多くの古代人が暮らしていたのだ。そういえば、小学校1年生の春の遠足は亀甲山古墳だった。初めての遠足で、みなでお弁当を持って学校から歩いて行ったように記憶している。


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2014年7月 5日 (土)

大多喜の水道跡

 房総の大多喜へ行った。大多喜城の坂道を下ると水道跡がある。江戸時代、房総で一番大きな町だった大多喜だが、水は川まで汲みに行かなければならず、常に水不足に悩んでいた。そこで明治2年、藩知事大河内正質は城山から水をひくことを計画した。豪商小高半佐衛門が世話役となり、三上七五郎、高橋四郎左衛門などが中心になってその計画は進められた。
 明治2年に着工し翌年には完成、大多喜に住む人々の力で、町にやっときれいな飲料水が行きわたったという。さらにすごいのは、昭和29年、町営の水道がひかれるまで約80年間使われてきたということだ。
 側面にはノミの跡もはっきりと残っている。暗い水道をのぞくと、遠くに小さな明りが見える。こちら側の取水口から流れた水が、あの明りの先に広がる町や村々に行きわたったのだろうか……水はどちらに向かって流れたのかちょっと分からないが、とにかく、崖の中腹に掘られた細い水道だ。
私はこういうものが好きだ。伊豆の一碧湖にある取水口も美しかった……。

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2012年3月19日 (月)

『力石』を調査した力石さん

 2月に大田区郷土の会の総会があった。毎年総会で機関誌『多摩川』が配布される。今回は50号、私も拙稿『馬込文士村の作家と作品』を寄稿した。殆どが大田区歴史関係の論考や調査報告書だが、そのなかに力石富司さんの『大田区内の力石』という、とても興味深い調査論考があった。
 力石さんの家は代々「石屋」で、関東大震災まで相模川の橋脚や秋葉原駅ホーム、横浜馬車道他の公共工事も請け負うほど、大々的に事業を営んでいた。ある時、江戸時代には「相撲」と並ぶ「力持ち」というスポーツがあり、大きな石を持ち上げて怪力を競っていたことを知る。それらの石は「力石」と呼ばれ、現在、多くは神社の境内などに置かれている。今回の調査論考は大田区内の「力石」をひとつひとつ調べて纏めたものだ。
 第1章:力石とその歴史、第2章:大田区内の力石、第3章:まとめ。
 最後に、現存する力石を保護、保全する必要を訴えている。

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